教科書活用03
ある国語の研究会では、冒頭を読んで物語の内容を予見させ、その予見を確かめながら読み進めていくのがいい、という論に沿って授業を進めている。
これは教科書程度の分量であれば成立するかもしれないが、本当に長文を読むときには使えない。「ハリーポッター賢者の石」で主人公のハリーが出てくるまでに、一体何ページあるだろうか。どこまで読めば「予見」ができるのか、そもそもこの場合の予見とは何か、私には学校教育のためだけに作られた読み方であり、社会に出たら少しも役に立たないと本気で思っている。
こうした研究のおかげで、子どもたちに教科書を閉じさせるというおかしな方法が広まっていることは実に残念である。
実は家に帰ったら読んでいました、という本好きの子どもたちにとってはいい迷惑であるし、読み終わってしまっていたら「読んでいないふり」をしながら授業に参加しないといけない。
むしろ逆であろう。
教科書の教材くらいは暇にまかせて、どんどん読ませていけばいいのだ。その上で、子どもが一人で読んでも見抜けなかったことを授業するから、授業は面白いのだ。
道徳の授業も然りである。
結末を見せないで授業をしようとするから、プリントが必要になる。
これも子どもは、自主的に教科書は見ないものだ、という前提に立っている。
それがすでにおかしい。
道徳の教科書は国語の教材よりも短編で読みやすい。時間に任せてどんどん読ませていけばいいのである。読んだだけで子どもが何を学べばいいのかが分かるのなら、こんなにすばらしいことはないのではないか・・・と教師が思えないことが問題なのである
以前にも書いたが、小学校にある教科別研究会の存在が、こうしたおかしな風潮を残す元凶になっていることが多い。
それが教科指導の主流だと言って、多くの教師がそれに従っている。
国語の授業はこういうプリントを使う、道徳の授業はこうした流れで進めるという固定的な観念があり、しかもそれぞれに一定の手間がかかる。
簡単にできることを広めるのは研究会の趣旨に反するからである。
いつの間にかデコレーションのたくさんついた授業が広まり、真に受けた現場の教師が、日々膨大な時間を費やしている。
教科書活用シリーズ
教科書活用1 情報の宝庫
教科書活用2 完成度
教科書活用3 見せない現場の教師
教科書活用4 道に迷う子どもたち
教科書活用5 見せない根拠が粗雑
教科書活用6 手順は教科書通りでいい
教科書活用7 子どものため・教師自身のため