給食指導 給食週間と完食指導

教育技術シリーズ

全国学校給食週間と完食指導

1 給食週間は全国規模のものだった

 毎年、1月下旬には「給食週間」なる期間があった。ローカルな取り組みかと思っていたら、なんと文部科学省のページに明記されてあった。

 ごく簡単に説明すると以下のようになる。

 学校給食制度は明治から始まっていたが、戦時中に一時的に中止されていた。
 それが、戦後の食糧難により子どもたちの健康状態の悪化から再開が求められるようになり、アメリカからの団体から支援を受けて再開した。
 その物資贈呈式を「学校給食感謝の日」と定めていたが、これを学校給食による教育効果を促進する観点から、今日の「学校給食週間」につながったということだ。
 今日的に言えば、学校給食は「食に関する正しい知識と望ましい食習慣を身につけるために重要な役割」を果たしており、その意義や役割について「児童生徒や教職員、保護者や地域住民の理解を深め関心を高める」ためにさまざまな行事が行われている。

 と記してある。https://www.mext.go.jp/a_menu/sports/syokuiku/1299359.htm

 戦後、戦勝国であったアメリカが、敗戦国である我が国の食料政策をコントロールしようとした、その一環に給食への介入があったという論がある(アメリカの小麦の余剰分を、我が国に売りつけるためなど)が、ここでは主旨とずれるので一度保留にしておく。
 戦勝国の施しに70年以上も経った今なお感謝し続けることには、個人的には賛成していないが。

2 感謝とは「食べきること」だけか

 食事に対する感謝の気持ちを持つことを指導することは、大きくは問題ないだろう。
 それは給食に限らず、社会全体としても広く認められるところである。

 しかし、これをあえて期間限定で学校の中で取り組もうとすると、少しばかり論点がずれてくる。

 給食に感謝というと、食べ物そのものへの感謝、農家などの生産者への感謝、お金を払ってくれている保護者への感謝、制度への感謝、実際に作ってくれている給食調理に携わるさまざまな人への感謝などがあるだろう。

 学校給食が巨大なシステムと長い歴史の中で成立していることを、子どもたちに伝えることも悪いことではない。
 自分が子どもの頃と比べても、給食ははるかにおいしくなり(それだけ工夫と手間が施されている)、またメニューも多彩になった。家庭では作ってくれることがないような郷土料理や、外国のメニューが出たり、大人の味付けでは食べにくいものも、子どもが食べやすいように工夫してあるのをみると、本当に頭が下がる。

 同時に家庭的に厳しい状況に置かれている子どもたちの重要な栄養源になっている事実も考えれば、学校給食は今なお重要な位置にあると言える。

 問題は、だから残さず食べましょうね、という結論に落ち着くところである。

 食べ物を粗末に扱わないことと、残さず食べることは、似ているようだが微妙に違う。
 ましてや、それを学校のシステムとして完食を目指すことは、論としてずれている。

 かつては、慢性的な不足の状態にあった食糧事情は、今日的にはむしろ食べ過ぎることや偏りがあることの方が、はるかに問題である。
 食べ物を粗末にするのは確かに「もったいない」という感覚になるが、食べきってしまうことが全て善とは言えないのが、現代社会の現状である。

3 論点ずらし「完食週間」

 かつて、勤務校では「完食週間」という期間があった。(勤務校全部ではない。)

 その期間には、食缶が空になっているかどうかをチェックして、空になっていたら校内放送でほめられるなどの一定の評価があるというようなシステムである。

 学級というチームで完食をめざそうとすると、よく食べる子に、残りを全て食べてもらう方法が最も簡単でいい。
 日頃からよくお分かりをする子どももいるだろう。その子たちが、活躍する場となる。

 しかし、本来は学級全体で人数や学年に応じて配当されている食事を、一部の子どもたちが余計に食べてしまうことで、学級全体のノルマが達成されるというような方法は、決していい方法ではない。

 漢字が苦手な子どもがいるからといって、得意な子どもたちがテストの身代わりをやって、学級の平均点をあげたところで、何の意味もないのと同じである。

 反対に食の細い子どもたちのせいで、学級が評価されなかったと批判されるのもおかしな話である。
 悪意を持って食べることを拒否しているのではない。サボっているわけでもない。

 別の項でも述べたが、基本はまず均等に分ける。(参照  )
 不足もあまりもないように、全員になるべく同じになるようにつぎ分ける。
 その上で、減らしたい子どもは減らし、そこで余った分を食べたい子どもが食べる。お代わりの調整はそれで終わりである。

 たくさん食べたい子どもが文句をいっても、もともと均等に分けた分だけが取り分なので、文句のつけようがない。
 反対に減らす子どもが多くて、その日は残ってしまっても、これもまた仕方がないことである。どちらも批判されるべきことはないはずだ。

 食べる量に関して言えば、それ以上でもそれ以下でもない。
 食事を集団を単位として評価するのは、いろいろなところにしわ寄せが生じる。

4 人類史上初めての「食べ物が余っている時代」

 昔は、食べ物は慢性的に足りなかった。
 人類史上、食べ物が余剰にあるのは(といってもまだ世界の一部だが)、この数十年にすぎない。
(これが未来永劫続くかどうかは分からない。)

 昔から、人は常におなかをすかせ、食べられるときに食べるようにしておいた。不足しているのだから、目の前にある食べ物は常に貴重品だった。
 だから少々の好き嫌いは我慢してでも「食べられるときに食べる」という意識の上では、残すことはいいことではなかった。

 子どもの時は苦手な食べ物でも、成長とともに食べられるようになるものはたくさんある。大人でもそうした経験をしている人はたくさんいる。だから、子どものうちに「好き嫌いをしないで食べよう」と教えることは、昔はそれなり意味があった(のだろう)。

 今の子どもたちに、その感覚を教えるのはとても難しい。

 「不足を補うこと」が社会の施策として重要だった時代は終わり、「適切に選択すること」が求められている時代となっているからだ。
(繰り返すが、そんな時代がずっと続くかどうかは分からない。少なくとも今の日本では)
 「いつ食べ物がなくなるか分からないから、食べられるときに食べろ。ぜいたくを言うな。」という指導などできないだろう。

 これは食事だけでなく、医療や保健の分野では共通して言えることである。
 「不足を補うこと」だけでは、不完全であり、場合によっては問題になる。

5 変化への対応が遅い学校

 その点において、実は学校の文化は変わりきらないでいる。私が新任教師だった何十年も前と全く同じことを、若い教師も言っていたりする。
 それは若い教師に問題があるのではなく、学校のシステムがガッチリと身動きがとれないものになっているからである。
 個人の選択が完全に委ねればいいとか、「もったいない」文化が悪であるなどとは思っていない。指導の仕方はもっと多様である。それは別の項でも述べた。

 時間をかけ、ていねいに指導すれば、子どもたちもマナーもよくなり、結果として時間をかけずに準備や片付けをしたり、無理なく完食ができるようになったりする。嫌いだったものが食べられるようになったと、喜ぶ子どもたちの姿も何度も見てきた。

 感謝=完食 という単純な方程式は、今の時代に合わない。

 実は、「とりあえず食べさせる指導の方が楽である」という気持ちは、分からないでもない。
 食べすぎの指導は、難しいのである。
 現場の担任なら、その感覚は分かるだろう。一歩間違えば、差別やいじめになりかねない要因をはらんでいるからだ。

 「欠乏の時代」の指導よりは、「選択の時代」の指導の方がはるかに難しいのだ。
 それは、給食に限ったことではない。現代社会の構造的な宿命でもある。

おまけ(どうでもいい話)

 余談だが、担任時代の話である。
 エビフライが給食に出たときに、子どもたちが「尻尾は残していいか」と尋ねてきた。私は、「家でやっていることとおなじでいい。」と伝えた。

 家で食べていれば食べていいし、食べてなければ食べなくていい、ということだ。
 私は今でもこの指導で間違いないと思っているのだが・・

 何人かが尻尾を残した。すると、完食のチェックをする教師が「これは完食にはならない。」と判断して、我が学級は一日だけ完食ができなかったということになった。(笑)

 今となってはどうでもいい話だし、ということはどうでもいい指導だったのだろうと思う。

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