さらに高生産性の研究授業

学校システム

高生産性の研究授業2

 「高生産性の研究授業」の続き

 研究授業をやって教師としての力量を付けるならば、
 担任ではない学級で、丸々一つの単元を授業させてもらう
 という方法が、経験上最も効率がいい。

 担任でない学級で、どの教科でもいいから一つ単元を丸ごと選ぶ。
 指導時間は年間計画通りで進める。
 当然、授業時間のオーバーは論外。
 宿題も出さない。
 市販テストを実施し、採点するところまでを自分の授業としてとらえる。

 ここまで実際にさせてもらえる機会は、長く教師をやっていても簡単には見つからないだろうことは重々承知である。
 しかし、力量を上げる研究授業の方法という一点に絞って言えば、これに勝るものはない。

 それは、5時間連続して授業をしたら、1時間だけする授業の5倍の成果では終わらない。10倍も20倍もの成果がある。

 1時間の授業なら、ネタを組み合わせて楽しく終わることができる。
 何度かの経験と、絶対に受ける定番のネタがあれば、かなりの割合で成功する。
 少々子どもたちが崩れていても、何となくたしなめる程度でもやりぬくこともできる。

 多くの教師はこれでも難しいと思うだろうが、場数を踏めば意外にできるものである。

 しかし、これが単元丸々だと全く話が違う。
 最終的に、その単元の内容を身につけたのかどうかという結果が、テストという数値ではっきり表れる。
 担任が授業するよりも点数が低ければ、それはもう「迷惑」以外の何物でもなくなる。

 担任とは授業の方法が違うのだから、子どもにとって違和感のある授業をやりぬいた結果、「おもしろかった」「よくわかった」と言ってもらわなければならない。
 「担任の先生はどうして授業しないんですか。」と言われたら負けなのである。

 ある時間の授業がうまくいかず、子どもたちがすっきり理解してくれなければ、そのカバーは自分自身が次の時間にしなければならない。
 それも時間内に収まるように、常に考えなければならない。
 うまくいかなかった分を宿題で補填するわけにもいかない。

 子どもたちも慣れてくれば、態度が悪くなったり、指示を聞かなくなることが出てくるかもしれない。指導を入れなければならなくなる。早い話が叱る場面が出てくることもあるということだ。

 その時に、子どもたちに納得のいく話ができるのか、と問われる。

 こういう状態の中で授業をすると、完全に学級経営というフィールドが使えない。
 授業の技量だけで進めることになる。
 それも、かなりの技量がなければならない。

 やってみると分かるが、もう言い訳のしようがない。結果だけが全てである。

 しかし、これをやってみると、担任時代に意識・無意識に関わらず教室の中に織り込んでいく学級の無言のルールがあることがよくわかる。
 例えば、担任はどこで叱るのかというポイントがある。子どもも、そのポイントを知っているから、そのラインを踏まないようにしている。(無意識かもしれないが)

 担任でない教師が授業をすると、それも分からない。
 何が「叱られポイント」なのか、子どもも読めない。

 だからいいのである。
 日頃は、教師も子どもも互いにこの「場の空気」に依存しつつ日々を過ごしている。

 この空気こそが、学級をまとめる基盤になっている。まさに「空気を読む」社会が、小学校のうちから形成されていることが実感できるのである。

 場の空気に支配されずに、授業を進めるためには二つの方法しかない。

 一つは、社会一般に通用する規範によって子どもたちを指導すること。
 もう一つが、守ることによって子ども自身が利益を得ることを実感させること、である。

 授業をするときに、当然言葉を選ばざるを得ない。
 どれだけ説得力を持って子どもたちに指示を出すか。それも、指示の意味をだらだらと説明するのではなく、活動させることによって納得させるのか。

 この緊張感は、授業の授業を最高に高めてくれる。

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