研究授業24 そろえることの愚かさ

学校システム

そろえることの愚かさ

 一時期、研究授業で学校中が足並みをそろえることが、地元でははやっていた。
 (全国ではそんなことはないことを願っているが、あえて書いておく。)

 他校の研究発表会に行くと、同じ掲示物、同じ板書、同じ流れ、の授業ばかりが並んでいる。学年が違っても(もちろん内容は違うが)形式はほとんど変わらないのである。

 自分の勤務する学校でもそろえることの強制がなされていたことがある。

 研究授業の講師を他校からお呼びしても、「他の学級も少しのぞいてみましたが、掲示物などがそろっていていいですね。」という言葉が出てくる。
 そのころは、「研究とは足並みをそろえることだ」と言わんばかりの雰囲気だった。

 私は、そろえることに反対である。正確に言うと、そろえることを強制することに反対である。
 お若い方が授業に自信がないので、同学年の先輩教師のまねをしながらやっていくというようなことはあっていいだろう。
 本人が望んでそうでありたいと教えを乞うのであれば、それは大切な学びとなるだろう。

 私には、学校を上げて全く同じような教室を作ろうとすることは、強烈な違和感がある。

 そもそも、そろえるための「型」となる授業があるのだが、その「型」が絶対的に正しいという前提がある。これよりもいい授業の方法がないという前提に立たないと、そろえる意味はないだろう。

 もっといい方法があるのに、そうでない方法を強制されることは、問題ではないだろうか。
 「型」をそろえることを強制する人は、もはや授業は完成された型が存在するという前提に立っているという意味で、傲慢である。

 掲示物の貼り方、板書の形式なども同じである。これが最良で、これ以上の方法はないと言い切らなければ、人に強制などできないだろう。

 その方法が最良でないと分かっているのに、そろえることを強制する意味は一つしかない。
 他者からの批判をかわすことである。
 違うことをすれば、抜きんでているものが評価される。裏を返せば、相対的に落ちていると判断されるものも出てくるということだ。
 (参照「そろえたがる学校」初等教育論シリーズ)
 そうしたばらつきのある評価を受けたくない場合、そろえるのは悪くない選択となる。

 しかし、そろえることを前提とするなら、もはや研究授業をする意味はない。授業の方法については同じなので、見るべきものはもう「学級経営」による雰囲気や仕組みづくりだけである。それは授業の研究とは呼べないだろう。

 授業を成立させている要素は、多岐に渡り、しかも複雑である。同じ授業をしても、全く同じ結果は出てこない。それは、子どもたちも違うし、教師も違うからである。
 同じ言葉を発したつもりでも、言い方によって雰囲気はいくらでも変わる。

 子どもたちの人間関係や、学級のルールによっても、様子は大きく異なる。何を言っても受け入れてくれるような集団であることと、そうでないことでは発言のあり方も変わる。

 それまでに積み上げてきている学習内容や学習技能によっても異なる。意見を言うことを常に求められている学級では、子どもたちは発言をするだろう。その逆もある。

 これは、変数がものすごく多い方程式を解くようなもので、どの変数を動かせば、どのような結果が出るのか予想ができない。

 研究授業の本番前に、同学年に同じ授業をやってもらうということがある。授業者がその時間だけ授業をさせてもらう場合もあるだろう。
 結果を聞くと、「学級によっていろいろですねえ。」がほとんどである。違いが生じるのはある意味分かりきっていることなので、それを確認するためなら意味のない作業である。

 これがもし、今までに誰も見たこともないような発問を出してみるとか、初めて経験する学習の流れであるとかいうのであれば、試してみる価値もあるかもしれない。
 「問題提起」となるような授業であれば、多くの検証を通しておくことで、問題提起の価値を判断することができる。
 しかし、学校で授業の型をがっちり決めてしまい、授業の流し方や、問題の提示、ノートの書かせ方、板書の仕方、はてはチョークの色まで全て同じにしてしまっている。

 ここまでくれば、後は何が見たくて(見せたくて)研究授業を推進するのか、分からなくなる。

 

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