研究にならない準備をした「研究授業」
以前に体育の授業を見たことがある。体育館での跳び箱の授業だった。
その地区の公開授業授業であり、多くの参観者があった。
少し早めに体育館に到着したのだが、不思議な光景を目にする。
子どもたちはまだ来ていない。しかし、すでに跳び箱は並んでいるのだ。場づくりは完了している状態である。
公開発表なので、いろいろなところから参加者が来ているのだが、中には明らかに保護者と分かる方々もいる。個人的には、研究授業を保護者に見てもらうことには賛成なのだが、どうやら少し事情が違うようである。
その場づくりの準備は、保護者がしたような話をしている。
そこに子どもたちがやってきた。教師に引率されてきちんと並んでやってきた。
やがて授業が始まり、子どもたちはそれぞれに跳び箱を跳び始める。
そして、子どもたちが一回跳ぶごとに、保護者から拍手が起こるのはなんだか違和感があったが、まあ保護者だから、それはそれでいい。
そして授業が終わった。
なんと、子どもたちは片付けもせずに帰ったのである。跳び箱を片付けたのは保護者だった。
着替え、準備、片付けなどが体育の授業で絶対に必要である。つまり、授業の一部なのだ。
今回の研究授業でも、子どもがやってきて準備するところから本当ならば見せるべきであろう。日頃はそうしているはずだから。
準備や着替えのために削られる時間がある中でも、主運動に効果的に取り組めるように考えていくのが教材研究である。
安全かつ迅速に準備ができるように育てるのも、大切な教育の一つではないだろうか。
参観に来た教師もみな、分かっているはずである。
前の時間に隣のクラスがやっていた場をそのまま使うというのではない限り、準備は自分たちでするものだ。
そうした日頃の授業を見せなければ、提案にはならないだろう。参観した教師にとっても、学ぶことは限られてくる。
体育の授業に関して言えば、子どもたちには、学習カードをかなり書かせているようだが、その書く時間も授業の中で取っていないことが多い。
それは、朝の会や帰りの会などに書かせるときいたことがある。朝の会や帰りの会で別の内容をさせたい教師にとっては、もはや参考にできない。
45分で完結しない授業が公然とまかり通るようでは、研究授業は授業者にとってお祭りのような授業になり、参観者にとても意味のない授業となり、双方にコスパの悪い存在になっている。