ハイレベルな授業は地味になる?
研究授業というと、何かしら今までとは違うものを準備しようとする人が多くないだろうか。
教室に掲示物が増えたり、子どもたちにプリント類をたくさん配っていたり、黒板の「貼りもの」もいつになく多かったり、それどころか、いつもよりぎっしり書いたりすることもある。
日頃やらないことをその時だけがんばることは、ある意味にお約束事になっており、そのお祭りの授業を見て、参観する同僚は「お疲れ様」と言っていたのではないか。
こうなると、日頃やらないことをするのだから、研究授業を引き受けるのが面倒になる人も出てくるだろう。
もちろん、日ごろはやらないことをするから実力がつくのだ、という考え方を否定はしない。負荷をかけるから能力は伸びるというのは、何の世界でも同じである。
しかし、いろんな授業を見て、あるいは自分自身もやってみて、気づいたことがある。
ハイレベルな授業は、「研究授業映え」しなくなる。
子どもたちが自分たちで黙々と学習に取り組むからである。
算数で教科書を使って、授業をする。
いつものように教科書を開き、問題文を読んだら、課題を考えて解いていく。
教師が貼りものをしなくても、教科書があるので問題ない。めあてなど板書しなくても子どもたちは何をするのか分かっている。
例示された問題を一緒に解き、後は練習問題を解きながら独力でできるようにしていく。
子どもたちは、自分で考え、ノートに書き、答え合わせをして、1時間の間にできるようになる。
しんとしてそれぞれが集中し、自分で深めていく。
算数で盛り上がるのは、応用問題を取り上げ、みんなで解いていくようなときである。しかし、そのような授業は研究授業ではめったに扱わない。
社会や国語の授業でも、討論的な授業をすれば、指導案の本時の活動には書くことがなくなってくる。極論を言えば「討論をする。」としか書きようがなくなるからだ。
教師があれこれと策をめぐらす必要もなくなる。また、教師の考えた予定調和で授業が終わるとはかぎらないからだ。
教師が予め指名する順番を決めるような小賢しいことはしない。
途中で介入して子どもたちの意見も修正しない。
それでも、論点をずらさずに子どもたちだけで話が進んでいくと授業は本当にシンプルになる。
その時にはもはや掲示物もプリントもいらない。子どもたちの頭に入っているからだ。
研究授業の派手さが、授業の質の向上を抑え込む悪しき場面が時々ある。
本当にハイレベルな授業は子どもたちが集中して取り組む。その姿にこそ強烈なインパクトがある。