教師が子どもを怒る理由

教育技術シリーズ

教師が子どもを怒る理由

 この場合の「怒る」というのは、「怒りの感情を出して、子どもと接する」と考えてもらえるといい。「叱る」とは少しばかり意味合いが異なる。

 教師が子どもに「怒る」のは、どういう時だろうか。

 それは、一言で言えば
 子どもたちの言動を諫めなければならないが、その方法が見つからないとき
 である。

 教師の方が、子どもの言動をある程度予測できており、しかもその対応方法が分かっているような場合は、怒る必要がない。
 柔らかく話をしても子どもたちを指導できるという自信があるのなら、怒る必要がない。

 これが、教師の方が「どうにかしなければいけないが、どうしたらいいか分からない」という時に、感情に任せて威圧する以外の方法が見つからず、怒ってしまうのである。

 教師の経験が浅いと、対応方法も分からないだけでなく、そのような状況が起こることを予想すらしていない。すると、突発的な対応として、怒るしかない。
 やがて、経験を重ね子どもたちの行動パターンが分かってくると、予想ができるので、指導方法が頭にイメージできる。

 子どもの言動に対する対策の手数が少ない教師ほど、怒ることが増える。増えざるをえなくなる。
 そして、怒っても怒っても子どもが変わらなければ、手を出さずにはいられなくなる。すなわち、体罰である。

 教師の手数が少ない時に「怒る」という方法を採ると述べた。経験年数が少ない時には仕方がないかもしれないが、結論から言えばやはり安易な方法なのであることは心にとめておかなければならない。

 だが、教師の中には少ない経験の中で「怒る」指導を重ねていくうちに、その方法以上の指導を見つける努力をしなくなる人も出てくる。
 怒っておけば子どもがおとなしくなることに味を占めてしまう。

 そうすると、何年経っても怒る以外の方法が分からなくなり、いつまでも怒ることになる。
 そして怒ることが子どもにとっても必要だと思うようになる。自分を正当化している。

 指導をすることは必要である。しかし、その方法が「怒る」だけが正しいとはならない。
 怒らなくても指導ができるなら、その方がいいに決まっている。

 別項で「教師の仕事は少年漫画」に似ていると書いた。
 これまでの経験の中で、いろんな子どもたちと出会い、それぞれに向き合ってきた教師であれば、その時々に乗り越えた場数の分だけ、言葉も増えていく。
 「あの時の、あの子に比べれば、大きな問題ではない。」「あのときは、こんな対応方法で乗り越えたから、試してみよう。」と思えるような機会が増えてくる。
 一時の苦労は、次への宝物になる可能性が高い。

 ちなみに、怒るというレベルもいろいろあるが、いわゆる「一番怖い」状態というのは教師にとって「伝家の宝刀」だと考え、できる限りその刀は抜かないようにすべきだ。

 もし、厳しく怒ったときに「あ、先生はこれが限界。これ以上はもう怖くない。」と悟られてしまったら、おそらく学級は崩壊する。
 子どもたちにしてみれば、どれだけ悪いことをしても、これ以上は怒られないレベルが分かってしまったら、その状態になったときに耐えておけばいいからである。
 つまりもう怖くないのである。

 怒るという方法で指導しない方がいいが、どんな問題が生じるか分からない状況の中でつねに最悪の状況を想定し、対応方法も頭に入れておかなければならない。

 こう考えていくと、少年スポーツや部活動の中で指導者の暴力行為がいつまで経っても改善されないのも同じ理由ではないかと思えてくる。
 すなわち、指導者の方は「心が通じている」「理解されている」「これまでも同じことをやってきた」と言っているが、要するにほかに方法を知らないのである。あるいは、ほかの方法を学んでないのである。
 怒ることが、指導者自身の「快」の感情になっていないことを祈るばかりだが。
 

新・教育技術シリーズindex へ

タイトルとURLをコピーしました