子どもが思う「もしかすると」

初等教育論

体験的子ども論

 自分自身の子どもの頃の記憶である。ぼんやりしているが、多分小学校低学年くらいだろう。

 親とテレビコマーシャルの話になった。
 その時に親が私に「NHKにはコマーシャルがない」という話をしてくれた。

 新しい発見と驚いた記憶もあるのだが、子どもなりにそれとなく反論もしたくなる。
「見たことあるような気がする。」と。
 しかし、親ははっきりと断言する。コマーシャルはない、と。

 その時の子どもの私は何を考えたか。
「これは、もしかしてNHKの放送ででコマーシャルを見つけたら、一大発見ではないか!」
 それからしばらくの間、意図的にNHKのチャンネルを見続け、特に番組と番組の終わりにコマーシャルが出てこないかを探し続けていた・・・・という記憶がある。

 自分のことながら、これぞまさに「子どもの発想」だと思ってしまう。

 大人が「NHKにコマーシャルがない」と断言できるのは、そのシステムを知っているからだ。
 公共放送と言う巨大なシステムの中で、コマーシャルを入れるか、入れないかは重要な問題であり、だからこそ入れないことを知っていれば、全ての番組を見なくてもコマーシャルが存在しないことは理解できる。

 しかし、子どもはそのシステムが分からないから、もしかしたら偶然に一つくらい入り込むかもしれないと考える。
 まるで自然界に突然変異の生き物が出てくるかもしれないような、そんな感覚で「NHKのコマーシャルの可能性」を期待するのである。

 ずっとNHKを見続けてコマーシャルを発見するという、子どもの頃のささやかな野望はいつの間にか
(おそらく数日ともたずに)潰えてしまい、いつのまにか放送システムを理解してしまったせいで、コマーシャルは存在しないと思っている。

 それでも、子どもの頃の「もしかしたら」はけっこうワクワクする感覚だったことを期待している。
 子どもにとって世界は広く、まだまだ知らないことだらけである。そこに少しずつ踏み込んでいくことは、知の発見としておもしろくもあるが、まだよくわかっていないときのワクワク感も捨てがたい。

 同時に、子どもの思考がどんなものかを理解しようと思った時に、この時のことを思い出すことがある。

 ここまで書いて、知らないことへのワクワク感は大人にもあるなと気が付いた。

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