「うそも方便」をどう教えるか
世の中で「正しい」と一般的に言われていることが、本当に生きていく上で有効かどうかは別問題である。
それは、大人であればよく分かっていることである。
「うそも方便」という言葉は、そうした世の中の現実を的確に表していると言っていいだろう。
時には「うそ」も必要な時もある。問題はそれを小学生にどう教えるか、ということだ。
このあたりは、教える大人の考え方や、子どもたちの受け取り方、あるいは低学年と高学年によっても異なるだろうと思う。
初等教育と言っても、一年一年子どもたちは成長していく。1年生と6年生では本当に話す内容は全くと言っていいほど違う。一言で原理を説明するのは無理がある。
自分が子どもと接して出した一つの結論は、今のところ二段階論である。
つまり、
「まずは、うそはついてはいけない。」
と教え、それが分かっている前提で
「うそも方便」
を上から重ねるように教える、という段階があるということだ。
そもそも「うそはついてはいけない」という前提がなければ、「うそも方便」ということわざの意味も分からない。
大人の生き方を教えるためには、窮屈で無理があるような一般的な正義を一度を伝えなければならないのだろう、と思っている。
「廊下を走ってはいけない」という学校生活の中で何度聞くか分からないほど繰り返されるルールがある。
しかし、火事の時にうしろから煙が迫っていて、しかも自分一人だけ逃げ遅れていたのならば、当然走るだろう。
ここで「走ってはいけない」というルールを律義に守らせるような教育をしてはいけないのは言うまでもないことだ。
この場合だと、なぜ走ってはいけないのか、というルールが決まった理由と、その例外的な対応として指導することはできる。
すなわち、通常の生活においては、互いが自由に全力で走っていては危険であること、しかし、命の危険が迫っている時に走った方が助かる可能性があるときには、ルールを超えなければならないことは、矛盾せずに教えることができる。
反対に、大人の方が回りくどい説明をするよりは、人として「ならぬものはならぬ」という毅然とした対応をしなければならないときもあるだろう。
「人を傷つけてはいけない」という決まり?に理屈は不要であろう。
何をごちゃごちゃと話しているのかと思われるかもしれない。
結局言いたいことは、子どもたちにルールや決まり、倫理というようなものを教えるときに、大人自身はどれだけそのことについて考えているかということなのである。
簡単に子どもたちに、ああしなさい、こうしなさい、あれはだめ、これもだめ、と言うのは簡単なのだが、それが子どもたちの心にすとんと落ちるかどうかは、まさに状況による。
子どもたちの素朴な疑問に自分が答えを持っているかと言われたら、言葉に臆することも多々あるだろう。
話は飛ぶかもしれないが、「何のために勉強するんですか。」という言葉に、どう答えるか、自分の答えを用意しているだろうか。
仮に用意しているとして、その言葉は本当に子どもたちの腑に落ちるものだろうか、と常に自問が必要だと思っている。
「何のために勉強するんですか。」と言う問いに私は「社会に出て役に立つ人になるため」と話してきた。今でも概ね間違っていないかもしれないが、例えばその言葉が今の6年生に本当に腑に落ちるかどうかは別問題だなと思っている。
社会の変化によって、言葉の価値も変わる。
それを踏まえて言葉を吟味し続ける努力は必要だろうと思っている。