小学生に自己評価は有効か

初等教育論

自己評価は有効か

 子どもたちに授業の評価をさせることがある。しばしばある。

 ずうっと以前に、研究発表会で「子どもの評価」というテーマを扱ったことがある。しかし、そのころから「評価は鬼門」と言われていた。難しいのである。

 授業の中で自己評価をいれようとすると、まるで評価のために授業を行っているような本末転倒の状況が生まれるからだ。(かといって、より普通の授業にすると、評価が見えなくなり研究にならない。)

 そのころからの疑問である。
 そもそも小学生に、授業における自己評価はできるのか。
 私は「できない」と考えていた。今も同じである。高学年でぎりぎり可能化もしれないが、低学年では方法も結果も信憑性が低くなる。

 そもそも評価をするためには基準が必要である。
 その基準に沿って、合格・不合格や達成・未達成などを判断する。
 自己評価とは、子ども自身の中に基準が内在化していることが前提なのである。
 これは自己の学習のメタ認知とも言えるだろう。今、自分がどういう状況にあるのかを離れた視点で見るということである。

 心理学を紐解くまでもなく、人間は乳児期には自分と他者との差が実感しにくい。未分化なのである。
 それが少しずつ自分と他者が切り離された別の存在であることを自覚していく。
 児童期はそのグラデーションの途中である。低学年であれば自他の分化はまだ完全でない場合もあるだろう。

 高学年であっても自他の分化は終わっていても、自分が何者であり、何を目指して、今どこにいるのかをメタ認知するのは、かなり高度な思考であるといえる。

 (大人でも難しくないか。教師は自分の授業技量をどのくらいメタ認知できているか、と考えれば、その難度の高さは容易に想像できる。)

 低学年では、自己評価が難しいという理由で、楽しかったかどうかを尋ねるという項目がよくあげられる。
 この「楽しかったか」という評価自体も、実に不安定である。(そもそも楽しいかどうかを自己評価と呼ぶかどうかも疑問だが。)

 授業の終末に、たまたま友だちとトラブルになると、それが理由でいとも簡単に「楽しくない」と判断される。あんなに楽しそうにしていたのに最後の最後で・・という結果になることは、よくある話だ。

 「楽しかった」という感情は、非日常的な意味合いが強くなる。
 いつも同じようにやっていることには、感覚が慣れ特別な感情は起きにくい。そもそも、そんなに小刻みに感情が動いていては精神が持たない。
 だから慣れてくると「ふつう」になる。不快でもないが、特別に快というわけでもない。
 毎日の歯磨きを「楽しい」と思わないのと同じである。

 子どもたちにしてみれば、授業のほとんどは「ふつう」であろう。いい授業をしていても、悪い授業をしていても、それに慣れれば「ふつう」になる。
 にもかかわらず、学習カードを書かせると大半が「楽しかった」に印を入れる。
 はっきり言えばこれは教師への忖度だろう。そう考えていてちょうどいい。

 毎日すべての学習に評価を入れると、多くの子どもたちはほとんどに「楽しい」と記入するだろう。しかし、実際にはそれほど特別に快の感情が沸き上がるものでもない。

 また、子どもの場合、それが楽しいものかどうかという感情の基準も不安定なところもある。そもそも活動に慣れていない状況では、快・不快よりも緊張か慣れの二択になっている場合もあるだろう。
 さらには、教師が楽しそうに授業をすれば、楽しいと感じるだろうし、逆もまたある。

 私はこの教師の立ち居振る舞いはかなり従業な要因だと思っている。子ども自身の感情も、環境によって深化していくのではないだろうか。
 だから、その場での感情を尋ねるのは、あまり意味がない。多くの子どもたちは、淡々と授業に参加している。それでいいのである。

 教師が一番楽しそうにしていて、授業の終了時に「今日は楽しかったね~」とにこにこしていれば、子どもも自然と笑顔になる。
 トラブルへの対応は別に行うとして、基本の感情は、こうやって形成されていく。

 高学年になると、もう少し授業の目的や活動に踏み込む内容になる。
 しかし、先にも述べたように、そもそもの基準があいまいなのだから、評価もばらばらになるのは当然であろう。

 例えば一度、自分が発表した結果、みんなの意見ががらりと変わるような大活躍をしたという子どもがいたとする。
 その子どもが、その最高値を基準にしてしまうと、その後ずっと低評価が続くことになるだろう。

 個々の子どもの持つ能力が一定でなから、自己評価の基準もそろわない。それを書かせて一覧にしたところで、学級全体の状況が見抜けるわけではない。
 教師が子どもを知りたければ、子ども自身の評価よりも、教師自身が見た方がいい場合も多々あるのだ。

 小学生が、自己のメタ認知を行い、行動の変容に生かせるようになるというのは、現段階では、単なる理想論である。
 部分的には可能なところもあるが、自己評価に依存すると、見失うものが大きい。

 本人にも気づかない特性や能力を引っぱり出してあげるのも教師の仕事だと考えた時に、授業の最中に子どもをよく見ることもせず、学習ノートを眺めていても、子どもは変わらないだろう。

 授業の終末に自己評価をさせるときには、その大半の項目が(小学生にはメタ認知はまだ難しいという理由から)成立しないと考えていていい。

 そうすると、授業の「まとめ」のあり方ももっと変わるだろうと思っている。

 

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