めあては不要4
前号「めあては不要3 固執と混乱」の続き
授業での「めあて」は、「まとめ」と連動していなければならない、という主張がある。
「めあて」で示される授業の方向が、「まとめ」によって収束していくという流れである。
一見、理にかなっている。
出された課題が、解決され整理されるように授業は進行していく方がいいだろう。
とはいえ、これが例によって「強制」されるとなると、話は全く変わってくる。
授業者が授業の組み立てを考えるときに、まずこの「めあて」と「まとめ」を先に考えなければならなくなる。
しかも連動していなければならない。一貫性がなければ、いい授業とは言われないからだ。
だから、この二つを先に考えて、その流れにあうような中身を考えることになる。やってみると分かるが、実に授業が面白くなくなる。
算数で「かけ算の筆算の仕方を考えよう」という「めあて」を立てたとする。
この「めあて」に対応する「まとめ」をまず考えるのが難しい。「考えよう」と切り出したので「考えた」と終わる、わけにはいかない。
日本語の文法的には合っているのだが、そもそも「めあて」の「考えよう」が論点ずらしの忖度を含む文言だから、対応する「まとめ」を持ってくるのが大変な作業である。
ちなみに、前号でも述べたことだが「考えよう」という「めあて」に設定することにより、学習の内容が本当に「考える」ことに重きが置かれるようになり、習熟することが宿題としてアウトソーシングするような授業になっていることが多々ある。
本来は、授業の中で習熟まですべきはずなのに。
まさに「めあて」に引きずられて授業の内容がおかしな方向に向いている例である。
国語で新出漢字の練習にすら「めあて」を求める場合、一体「まとめ」にはどんな言葉が並ぶのだろうか。見たことがないので興味がある。(笑)
はっきり言えば、そのような言葉が授業の冒頭と終末に出てくることに意味はない。
それどころか、この「めあて」と「まとめ」の存在により、授業とは45分の中で一定のストーリー性を持つものであることが要求されるようになった。
初めに疑問が生じ、それを時間の経過とともに解決していき、終末において見事解決していくというまるで推理ドラマか時代劇のようなモデル化がなされている。
念のために言っておくが、そうした形の授業があってもいい。
ここで疑問視しているのは、「めあて」を強制していることにより、年間1000時間を超える授業の全てがかくあるべきなりと暗黙の強制をしていることにある。
授業はさまざまな形が存在する。いや、存在するように教師が工夫をするべきである。
「めあて」と「まとめ」の連動を考えるあまりに、授業が形式化していく。教師は考えることが多くなる割には、発展性のない作業が増える。
また、この二つが強制的に置かれることで、授業を必ず45分で一本通すような形を取らざるを得なくなっている。
例えば、授業の冒頭に新出漢字の練習を5分入れる、というような作業は、「めあて」ありき理論の上では存在しないことになる。
国語の研究授業で、仮に冒頭5分に新出漢字の練習を入れたとする。すると、「あの漢字練習は本時のめあてとどのように関連していたのですか。」という質問が絶対に出る。
5分だけ違うパーツを入れるという方法は禁じ手なのである。
実はこの「めあて~まとめ」論の影響によって、漢字が宿題になっていると言ってもいいくらいである。これは深刻な問題ではないだろうか。
経験の浅い若手教師が、初任の頃からこの「めあて~まとめ」ラインを指導される。
その結果、たまに行う研修のための授業だけでなく、日ごろの授業でも同じような発想で組み立てるようになるのは容易に想像できる。
結果として、形式的に整っていてもなんだか面白みのない授業が大量生産されることになる。
教師がおもしろいものを持ち込んで、子どもたちが興味津々になっている。早く続きが知りたいとワクワクして集中している。
さあ、次は何だと、と思っているところで「では、きょうのめあてです。」とおもむろに教師が板書を始めて、子どもたちがそれを写し始める。
この状態が子どもの意欲に冷や水をかけていると気づかない方がおかしくないだろうか。
そのワクワク感で45分の授業がひっぱっていけるのに、一度冷静になってノートに書き写す作業。しかも学級にいる何人かは、それを苦手としていて授業から脱落しているのならなおのことであろう。
「めあて」によって失ったものがあることを現場はそろそろ気づくべきであろう。
めあて不要論シリーズ
めあては不要
めあては不要2「あいまいさ」と忖度
めあては不要3 固執と混乱
めあては不要4 形式化された授業の量産
「漢字をがんばります」??