めあてはいらない 3
前号「めあては不要2「あいまいさ」と忖度」からの続き
子どもたちがノートにめあてを書くときに、通常はノートの一番上に書く。
なぜなら、そう書いた方が、後からの見栄えがいいからだ。
ひと頃、地元では「算数ノートは見開き2ページで1時間の授業を収める」という意味不明のルールがはやった。
それがノート指導だということで。
その時も、見開きの左上がめあてとなっていた。
通常の学習では、まず学習問題があって、その問題を解くために新しい課題が生まれる。それが本時のめあてとなる。
しかし、そのノート指導では学習問題もノート書かせる。分量が多い時には、予め教師がコピーしておいたものを貼らせる。(この手間も問題だが、今回は割愛する。)
書かせる順番と、授業の順番が違うために混乱する。
そこで編み出されたのが、「学習問題を書くときに、予め冒頭の数行を空けている」という奇妙なノートの書き方をすることになる。
子どもたちも慣れたもので、始業時に「先生、今日は何行空けておきますか。」なんて質問している。(我が学級ではない。私はめあてを書いたことがないから。)
先回りと言えば聞こえはいいが、「教師から提示されたものを写す」という行為には何の変りもない。むしろ予め開ける量が決まっているということは、完全に子どもたちの判断する余地はないということだ。
さて、やっとめあてをノートに書くことになる。
ご存じの通り、黒板に示されためあてをノートに書くことが苦手な子どもは一定数いる。
黒板とノートを交互に視点を移しながら、書いていく作業は教師が考えている以上に大変な作業である。この一点を見るだけでも、めあてを書かせることは合理的ではない。
ここですでに出遅れる子どもが出てくる。
めあてを写すのに、5分10分とかかってしまう。もうやる気など出てこようはずもない。
そのあと何もしないでいる子どもに、教師が声をかけるのだが、これまた興味深いことを言う。
「めあてとまとめだけでも写しておきなさい。」
算数だからめあては書かなくても、いや写してでもいいから計算を1問でもやった方がいいのではないかと思うがいかがだろうか。
めあてなど何万回書いても算数はできるようにはならない。
要するにもうあきらめているのだ。それでも、見た目がいいから、タイトルだけ?書くように指示している。
これはむしろ反対だろう。
めあては書かなくてもいいから、計算は最低1問でもするように指示するべきだ。
しかし、そうするとほかの子どもたちから文句が出る可能性がある。ほかの子どもたちが文句をいうということは、意味がないことをやらされていると思っているのだ。
なぜここまでめあてを書かせることにこだわるのか、言葉の片りんから想像してみた。
(直接聞くとけんかになるかもしれないから。)(笑)
どうやら、ノートの出来具合にこだわりがあるようだ。
(推進派の人、違っていたら教えてください。)
後から子どもたちがノートを見返したときに、どこに何の学習があるのか一目で分かるようにすることが、目的の一つのようである。
だから1問も解かない子どもたちも、「学習に参加した」という足跡だけは残せているということのようである。
これは「未来のために現在を犠牲にしている」形になっている。
今の学習時間を使いながら、未来に見直すためのノートを作っているのだ。
小学生の子どもたちにとって、授業中のリアルタイムで学ぶことと、後から振り返ることを天秤にかけたときに、どちらが重要だろうか。
私は圧倒的に「今」である。
今、学習が楽しく実のあるものかどうかの方が、子どもたちには意味もある。価値もある。
そうまでして、めあてを書く理由がやはり分からない。
次回さらに続く