漢字を宿題にしてきた意外な原因
長らくわが国では、公用語である漢字の練習を、宿題に依存してきたのではないかということを述べてきた。(参照「漢字練習は宿題にしてはいけない」)
実は、こうした文化?が形成された意外な要因があると考えている。
国語の教科書に教師用の指導書があるのは、教師ならご存じだろう。
あの指導書の単元計画の中に、漢字練習が明確に位置付けられていない。
どの単元で、どの漢字を学習するかは教科書にも明記されているが、どうやって指導するかは指導書にも書かれていない。
これは、教師の判断で組み込み方を工夫していいということだろう。
これは、教師の方の要望でこのような編集になっている可能性もある。教科書の指導書に書き込まれると困る教師もいるような気がする。
卵と鶏の関係かもしれない。
いずれにしても、書かれてないことで、この指導書通りに授業をしようとする教師にとっては、漢字指導の存在が見えにくくなる。
いや、事実上存在していないと言ってもいいくらいだ。
同じことは、市販テストにも言える。
これは国語に限らないことだが、教科書の編集においては、市販テストをすることは前提とされていない。市販テストは(日本中で当たり前のようにやっているのだが)実施が強制されるものではなく、任意でなされているからである。
教科書会社にとって、「テストの時間も入れてください。」という指導を組む必要はない。
これを教師の方が、何も考えないで指導書通りにしようとすれば、単元が終わるたびにテストの時間が1時間ずつ不足することになる。
だから、学期末になると時間が不足する。
中にはテストの存在を忘れていて、学期末に慌てて大量のテストをする教師も出てくる。
誰が悪いというわけではないが、おもしろい現象である。
漢字指導も、そうした位置づけに置かされていると思っている。
ここから話はさらに広がる。
国語の研究授業をするときに、その単元の指導計画を書く部分に、漢字の指導を明記しているだろうか。または、人の研究授業を見るときに、指導案に明記しているのを見たことがあるだろうか。
自分の地元では、漢字指導が指導案に明記されているのをほとんど見たことがない。私も「書かなくていい」といわれた記憶もある。
もし、当たり前のように書かれてあるなら、それは素晴らしいことと思う。
漢字の指導を表記するなら方法は二つしかない。
一つが、単元の中に1時間として組み込む方法。
もう一つが、毎時間に少しずつやっていく方法。
前者の場合は、確かに明記はされるのだが、本当にその通りに指導しようとすると、たくさんの漢字を一気に指導することになる。
また、言語事項のような2時間程度しかない小さな単元では、(むしろ、そこにたくさんの新出漢字が織り込まれるのだが)1時間を特設する方が無理である。
一気に指導しても覚えられるわけがないから、当然「続きは宿題」という展開になる。
後者の場合は、今度は指導案の「本時の展開」の中に書き込むことになる。
しかし、公開された国語の研究授業で、例えば冒頭5分でいいから「毎日やっている漢字練習を入れている。」という授業を見たことがない。
ここでも、漢字指導は存在しないことになっている。
似たような状況に置かれているのが、音読である。公開された授業の中では、子どもたちは漢字がすらすらと書け、教科書もすらすらと読めることが前提となっているかのようである。
漢字指導を、年間の指導の中でどこに位置付けるべきかが、学校教育の中で明確になっていない、というのは言い過ぎだろうか。
かつて20代の頃、学校の研究主題を一年間の限定でいいから「漢字指導」にしませんかと、意見を言ったことがあるが、誰も相手にしてくれなかった。(笑)
個人的な印象であることを前提に述べるが、研究授業や公開授業と呼ばれるものは、ある種のドラマ性を要求されているところがあるように思う。
45分(50分)の中に組み立てを考え、思考も感情も時間とともに高まっていくようなイメージである。
そこに「めあて」の存在が重なり、一つのテーマに従ってストーリーが進んでいくような展開でなければ授業ではないようなイメージである
だから、5分だけ漢字練習が入る、というようなぶつ切りの授業のあり方が基本的に受け入れられていない。
日頃やっている人でも、公開授業などでは実際にやって見せる人は皆無である。
要するに、漢字を指導することは国語の学習の中で、正式な地位を与えられてこなかった要因が習慣的に積み上げられてきたのではないかと推定している。
これは誰が悪いというのではなく、いつの間にかそうなったというようなタイプのものである。
ここに「漢字は宿題」という習慣があるために、改革を打ち出すことも難しい。
かくして、漢字の指導は各学級担任に任せられるという、おかしな状況になっている。
指書きをはじめとして、個々の担任の指導技術は大きく進化しているのだが、システムとして導入するという意味ではなはだ脆弱な状況であることは今も変わりがない。