子どもはそういうものとして受け入れる その2
子どもは環境をあるままに受け取りやすい、という話を別項で書いた。
(参照「子どもの思考の特徴」)
これは、学習だけでなく、日常生活でも同じ原理が働く。
赤鉛筆を忘れたとする。
教師は、自分が困るから放置すれば、次から気を付けるだろうと思うだろうが、残念ながら全く逆である。
赤鉛筆がないなら、色鉛筆のピンクやオレンジを使ったり、普通の鉛筆でそのまま丸をつけたり、あるいは何もしなかったり、というような対応をする。
つまり、「ない」という環境に順応し適応する。
放置すればするほど、適応するので、さらに指導が困難になる。
散らかった教室にいれば、ごみは散らかしていいものと思う。
きれいな教室にいても散らかす子どもたちもいるくらいだから、ましていわんやである。
言葉遣いが乱れている学級にいると、みんな乱れてくる。
しかし、いやな言葉をかけられれば、いやな気持になるのは誰でも同じである。
それでも学級の中では、いやな言葉かけが日常だから、そういうやり取りしかしなくなる。
何となく心が乱されていく状態が、日常になる。
一見、楽しんで生活しているようには見える。(それはそうだろう、それが日常だから。)互いに笑っているし、冗談を言い合っているようにしか見えない。
子どもはそれが日常だから、受け入れているだけである。しかし、傷つきながら受け入れているのである。
こういう学級では、小さなことで子どもたちの感情が爆発する。
急に手を出したり、いじめが起こりやすくなる。
しかし、教師はその原因が日常にあるとは気づかない。日頃から小さく傷つけあっているせいで、互いに笑顔でいながら心がボロボロになっていることに気づかない。
だから、直近の現象だけで物事を処理しようとする。
どうしてけんかしたのかを聞くと、「突然叩いた」という。なぜ突然叩くのかと相手に聞けば、あれこれと理由を言うが、どこか的を射ていない。
たしかに直接手を出したのは悪いかもしれないが、その引き金になる要因が日ごろから学級のあちこちに埋まっていることに教師が気づかないと、何度でも同じことが起こる。
学級のテストの平均点がいつも80点くらいなら、不思議なくらい、いつもそこに落ち着く。適当に書いたり、うっかりミスが多発したりして、点数が伸びない。
子どもたちは、正確な平均点など知るわけもないのだが、学級の空気のようなものを微妙に感じ取っているのではないかと思うくらいである。
どのくらいの水準でいればいいのかを、何となく察知し、その水準で行動する。
平均点が80点レベルだと、100点の子もいるが、同じだけ60点の子もいることになる。
そういう中で50点の子どもたちを引き上げようと思うと、教師もエネルギーが必要になる。
50点の子どもにしてみれば、どうして教師が自分だけに言うのか、よく分からない。みんなと同じレベルなのに、と思っている。
子どもたちに忘れ物をさせたくないと思うのなら、むしろ貸し出すことで、正しい道具を使うことの心地よさをまず実感させなければならない。
習慣のない子どもたちは、忘れている状態を習慣にしてしまう。
子ども同士のトラブルを避けるならば、何にもないと思える最も平時の時の子どもたちの言動にこそ注目しなければならない。
子どもたちの学力を上げようと思えば、まずは5点でいいから、全体を引き上げていき、環境を変えていかなければならない。
子どもにとっての日常がどこにあるのかを意識せずに、問題が生じた時だけ対応しようと思えば、一層難しくなるだけである。