素朴な小学校の目標
世間ではあれこれと教育談義に話に花が咲き、理想や目標が語られている。
しかし、多くの保護者や子どもたちは、今目の前の学校にそんな崇高なものを求めているわけではないだろうと思っている。
朝、子どもたちが目を覚まし、準備をしたら、元気に「いってきまーす」と学校に向かってくれるのであれば、とりあえず保護者としては何もいうことはないだろう。
帰ってきて、あれこれと楽しそうに学校の話をしてくれていれば、とりあえず安心だろう。
その中で、授業の話や先生がこんな話をしてくれたという話が出てくれば、なおのこといいだろう。
友だちとけんかしても結果的には仲良くなったり、難しいことに挑戦しても、あきらめていなかったり、結果的にできるようになってくれれば、親もうれしいだろう。
時折持って帰ってくるテストが満点だったり、絵や工作がよくできていたら、もう言うことはない。
学校の評価の原点は、子どもの姿にある。
子どもが学校が大好きで、友だちも先生も大好きなら、とりあえず親は安心する。それが続いてくれれば信頼につながる。
もし途中で何か心配事があっても、今までの流れからすればきっとうまくやってくれるに違いないと思ってもらえれば、大きな批判にはならない。
これは担任が個別に努力するだけの目標ではない。
学校全体で考えていくともっといい仕組みができてくるであろうと思っている。(ここが大事。)
例えば研究授業のあり方などは、典型的な例である。目指している授業像が子どもの実態と乖離しているために、研究授業で子どもが面白くなさそうにしている場面を何度も見てきた。
「これって、子どもたち絶対に熱中するよね」というような教材研究をしているかと言えば、困る教師も多いのではないか。
授業をしている担任も不本意なのではないかと、気の毒に思う。
「どこ見て仕事している?」
という言葉は自分への戒めの言葉だった。
それを忘れると、学校にはひずみが出てくると思っている。
しかし、見ている場所が子どもではないような話が、今は学校のあちこちから聞こえてくる。
保護者だったり、同僚だったり、管理職だったり、あるいは地域だったり、世間の声だったり・・
「子どもを見ろ」という言葉が、後から保護者からの面倒ごとが来ないように、という目的が隠れているのであれば、それはもはや子どもを見ていることにはなるまい。
子どもではないところを見る方が、むしろわが身を守るためと割り切る方が楽ではないかと思うくらいである。
ちなみに子どもを見て仕事するというのは、媚びることでもおもねることでもない。子どもはもっと知的な存在である。