「そういうもの」論と授業
ずいぶん前に博多人形師さんの仕事についての研究授業を見たことがある。
4年生の社会科の授業である。
博多田人形師の人が十代で弟子入りし、その当時も70代のお年になっていらっしゃった。60年間も人形師一筋のお仕事である。
その年齢に着目し、教師が「どうして〇〇さん(人形師さん)はこんなにも長く博多人形を作り続けたのだろう。」という学習問題を作った。子どもも一緒に考えた学習問題なのだが、教師が主導したと言ってもいいだろう。
私は当時からこの学習問題に疑問を持っていた。
子どもたちは、人形師の話を聞いて、この学習問題を作ったことになっているのだが、そのまま教師が手を入れなければ、こんな学習問題は絶対に生まれないと確信している。
子どもというのは、特に幼いほど年齢の感覚が分かっていない。
自分が10歳なら、11歳から上の年齢は未知数である。だから、何歳がどんな生活をしているのか実感がない。
また、何歳がどのくらいの風貌なのかもよくわかっていない。
だから60年間も同じ仕事をしていると言われても「そういうもの」と受け入れるだけで、そこに大きな驚きはない。むしろ大人の方が、自分の経験や知識から推定し、その時間の長さに驚く。(大人も先のことは実は分かっていないのだが。)
また博多人形を見ても、その美しさはよくわかっていないだろう。なぜなら目の前の博多人形を見て「そういうもの」と受けいれているからだ。
この人形のほかに他の人形をいくつも見比べたら、少しは実感がつかめるかもしれないが、そうした他との比較においても、基準値が分からなければ比べようもない。
子どもに実際に人形の顔を描かせてはどうかという意見もある。自分で描けば、人形師の技のすばらしさを実感するだろうという予想である。
残念ながらこれも失敗するだろう。子どもは、大人が自分よりも優れていることを知っている。知っているからこそ、学ばなければならないと思っているのだ。
かくして、子どもの特性を考えれば、人形師さんへの驚きは特にない、そのまま受けれていると考え、学習問題が大人が作ったものだと判断できる。
今のスマートフォンを見て「この小さな機械の中にカメラの機能と電話の機能が備わってすごい!」といくら力説しても、子どもたちは特別驚かないだろう。目の前にそれがあるからだ。
子どもが驚かないからと言って、博多人形がつまらないなどということは決してない。
むしろ逆である。博多人形に限らず、伝統工芸の歴史は可能な限り子どもたちに伝えていくべきであろうし、人形の美しさも語っていける人が語っていくべきである。
驚きはなくても、それが「価値あるものであると受け入れていく」ことはできる。
子どもの思考のあり方に問題があるのではなく、授業を考える大人の方に一工夫が必要なのだ。