感性の違いではなく情報格差である

初等教育論

 子どもたちは生まれた瞬間の情報量は、みなゼロである。
 しかし生まれた瞬間から、膨大な情報をインプットしていくのだが、その量と質は家庭や社会によって大きく異なる。
 どこかに遊びに行く、行かないというような違いだけでなく、見ている風景、聞いている音楽や言葉、読んでいる本、映像や動画、とりまく人間関係、などなどとても把握ができる量ではないくらいの莫大な情報量である。
 ただ、その量と質に違いがあるであろうことは、誰でも理解できるはずだ。

 そして、特に子どもたちの年齢から考えれば、その情報の違いは、家庭のありようが大きな理由になっていることは想像に難くない。
 その違いが生じることを否定するつもりはない。
 全てを同じにすることは不可能である。家庭に踏み込んで、いちいち指図することはできないし、その必要もない。

 だからこそ、学校の中で出てくるその違いを「感性」などという言葉で片付けてはいけない。
 教えればいいのである。
 もし、その子どもたちに教師が学習として明確に教えておけば、どの子どもも同じ目でツバメの巣を見ることができていただろう。

 次の年に違う教師がたまたまツバメのことについて話をしたとする。このときに、どの子も「知っています。ツバメの巣って、〇〇のお店の軒下にもあるんですよ。」などと話ができれば、その担任は、きっと子どもたちを高く評価するだろう。どの子どもももよく知っている、と。
 つまり、前の年の教育は、次の年の子どもたちの成長としてくっきりと見えてくるのである。
 教師が「今子どもたちが持っているもの」に依存した教育をして、「今持っているもの」だけを評価していては、子どもは学校で成長することができない。

 家庭に依存すると、子どもの情報格差は開くばかりである。質も量もばらばらになっていく。それを是正し、情報について一定の量と質を担保し、子どもたちに提供するのが公教育の仕事であろう。

 感性だけでなく、創造性や見たことのない問題への解決能力などが今の社会で求められていることは、理解できる。
 だからと言って「自由に考えてごらん」だけをやり続けていては、初等教育の段階で子どもの内部情報は枯渇する。

 初等教育は情報のインフラが作られる時期である。今後の生活のために、基礎となる知識や体験を十分に与える期間である。
 初等教育では、教えることに躊躇してはいけない。

 かといって、教え込むだけでは、身につけた情報は生かせない。情報そのものをみにつけさせるだけでなく、その使い方をも指導しないとただの受け身の子どもになる。
 そのことについては、別途論じることにする。

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