教育についての議論は、さまざまになされている。
教師の働き方改革、ICTの導入、いじめや自殺の問題、入試の問題、諸外国との比較、教育予算の低さ、などなど・・・
そうした議論を拝見しながら、いつもすっきりしないことがある。
議論に示された現状の把握や批判、あるいは新しい提言などを初等教育に当てはめる。すると、具体策をどうするかという視点になったところで論点がぼやけてくるのである。
具体的な内容に踏み込むほどにそれは中等教育や高等教育の話になっている。
働き方改革では中学校の部活の問題が取り上げられる。部活こそが教師の勤務状況の諸悪の根源かのような扱いである。事実、そうした側面もあるだろう。時間的な制約で言えば、休日の勤務など大変だろうとは思う。
では小学校の場合は、中学校ほど問題はないのか。
例えば小学校では、中学校、高校の2倍の6年間である。その上、基本的に教師は全教科を指導することになっている。全部の学年を一巡しても6年かかる。中学、高校の教師は一つの教科を指導するのが原則だろう。それも3年間である。
一度教えてしまえば、次の学習指導要領が改定するまでは、同じことをずっとやり続けていればいい。むしろ小学校よりも負担は少ないではないか、・・・と思うのは偏った見方なのか。
一般の論調として、小学校の教育内容は「たかが小学校ではないか。」「教えることに難しさもなかろう。」と思われているのではないかという印象すら受ける。
簡単な内容だから、先生たちも教えることにそれほどの負担もあるまい、それに比べれば中学高校の内容は難しい、という一般的な大人の印象で片付けられている。
しかし、内容に関して言えば、同じことを長年指導する教師にしてみれば、何ら問題はないだろう。数学の教師が、数学が苦手ということは基本的にはあり得ない。あってはならない。
ここには、専門職としての指導法という問題が完全に欠落している。指導法を問題にすれば、小学校教師の負担は跳ね上がる。1年生の平仮名の指導と6年生の歴史の指導の両方を求められているのが小学校の教師である。
ICT機器の導入の話では、機器の導入による授業の変化がよく論じられるが、次第にレベルがあがり、中学校や高校の話が多くなる。小学校はよくて高学年である。低学年での事例は見つけるのが難しい。なぜか。
子どもが生まれてから、すぐにICTが使いこなせるとはだれも思っていない。当たり前のことである。しかし、一定の年齢になると途端に推奨される。
問題は、その端境である。グラデーションのように少しずつICTを導入していくのだろうが、その連続した取り組みが明らかになっていない。
本当は何歳からなら適切なのか。13歳では十分に活用できる。0歳では全く無理だ。ではその間はどうなっているのか、明確な答えを未だ見つけ切らない。
エビデンスもない。
我が国の初等教育は、諸外国と比べて高いレベルにある、とよく聞く。問題は中等教育、高等教育なのだ、という意見もよく聞く。
何がどう高いレベルなのか、すでに高いレベルならば現状維持でいいのか、システムは体制に問題はないのかと言われれば疑問符ばかりが残る。
実は、初等教育を論じるのは難しい。
7歳1年生の子どもと、12歳6年生の子どもを同じステージで論じることが果たして可能なのかという疑問は現場にいた自分でも思う。かといって、彼らは小学校という同じ箱の中で生活し、担任教師は毎年の校内人事により、上の学年に行ったり、下の学年に行ったりしている。
学校でなされる校内研究も、学年の段階を論じようとしているが、成功しているとは言えない現状が多い。学習内容の段階はあるが、指導方法が同じであったり、子どもたちの学び方が同じであったりすることは、かなりある。
そもそも学習指導要領以外に初等教育の段階を論じているものがほとんどない。指導要領は、学習内容に言及しているだけで指導法には踏み込まない。そこが現場の教師の裁量にゆだねられていることには、ありがたくは思うのだが。
新しい時代を切り開くために、答えのない課題に向かっていける力が必要だ言われている。言っていることは多分正しいのだろう。
では、例えば一年生に、答えのない課題に取り組ませたときに、どのようになるか想像できるだろうか。これが仮に就学前の年長クラスであればどうだろうか。子どもたちなりに解決できることはあるのはあるだろうが、限界を感じないだろうか。
幼保の年長クラスは無理なことが、小学校一年生でできるようになる、その段階の根拠はどこに求めればいいのか。
こうした何気ないところへの詰めが甘いために、初等教育は何となくさまよっている。
そこで、改めて初等教育の在り方について論じることを試みてみる。
世間で出されている様々な意見について、初等教育であればどのような現状があり、今後どのような取り組みを、どうやって進めていくか、論じていくとにする。
当然のことながら、賛成も反対も意見が出てくるだろう。
それこそが、臨むべき姿であろう。初等教育に限定した議論がなされるということ、そのものに意味があるのだから。
論を進めるために視点を整理しておきたい。
先にも述べたように、1年生から6年生までの発達の変化の大きさは考慮しなければならない。はっきり言えば同じ主張ができない部分がかなりある。
とはいえ、どこかある時期に突然変化するわけでもない。変化はグラデーションである。
また、教科の内容や学び方、思考の仕方にも違いがあるだろうし、個々の子どもたちの違いもかなり大きなものがある。
そこが初等教育を論じる上での難しさになっては来たのだろう。しかし、放置していては結局のところ話が進まなくなる。
論を進めるにあたり、それがどのくらいの学年や年齢に適しているかについては、常に視野に入れておかなければならない。
子どもは発達していくものであるが、その発達が一次関数のグラフのようにはいかない。だから、発達のレベルが量や数を段階的に増やしていくようにはならない。あることが低学年までは全くできなかったのに、高学年になれば急にできるようになることもある。
また、ある時期までにできるようになっていることを前提にして、新しい別のことができるようになるという現象もあるだろう。
あるいは、ある年齢の時だけ突出し、その前後では目立ちにくいような特性もあるだろうと想定される。
こうした様相は現場の教師にとって経験則としてつかんでいく。子どもたちと日々を過ごしながら、情報を集め経験と照らし合わせながら、指導の最適解を見つけている。
そこにある程度の論が見えてくれば、教育の在り方の骨格を見つけることができるのではないか。
そうした大きな目標をもってとりあえず、論を進めていく。