教えることをためらわない
ある体育の研究授業。跳び箱の授業である。
研究団体の公開授業なので、参観者は研究会の人ばかり。
授業は子どもの自主性を重んじ、自分たちで考えて取り組むことがいいとされている。しかし、子どもたちはその1時間で少しも上達しない。
ある子どもはヘッドスプリングをやっている、その横で開脚跳びに挑戦している子どももいる。何度跳んでも同じ動きの繰り返し。
チャイムが鳴る。教師が集合をかけて話をした後、子どもたちが片づけを始める。すると、参観している教師たちは一斉に(偶然にも)助言を始める。巨大なティームティーチングが一瞬にして始まった。
教える技術は持っている。それは授業者である担任も同じだろう。みんなできないままでいる子どもたちを見て忸怩たる思いでいる。少しアドバイスすればすぐにできそうなのに、子どもたちだけでやっているから、それが分からない。
しびれを切らした教師たちは、授業が終わったのをきっかけに助言に入るというわけだ。
教えたくなる、それが教師としての真っ当な姿だろうと思う。私も見ていてアドバイスに行きたかったのだが、我慢をしていたのだ。できない子どもたちに寄り添い助けようとするのが教師のあるべき姿だ。
担任も同じだったろう。
誰が何の目的でそれを阻害しているのだろうか。
ある尊敬する校長先生、体育研究会の第一人者だったのだが、その方が「開脚跳びくらいはまず全員ができるようになっておかないと、何がめあて学習だ」と言ってあったことを今でも覚えている。
教師が教えてできるようになるレベルくらいは、どんどん教えて上達させればいい。
どの子も上達して、満足するだろう。その上で高いレベルまで行ったときに、考えさせる授業に転換すればいい。そのレベルなら子ども高いモチベーションがあり、場合によっては自分でネット情報を集め、動画で分析するかもしれない。
始めから子どもたちを「千尋の谷に突き落とすように」自主性に任せ、できない子どもたちがずっと「這いまわる体験」をしているような学習で、本当に体育を好きになるのかと思う。あの研究会でずっと開脚跳びができずに練習していた子どもたちは、多くの教師の中でどんな気持ちでいたのだろう。
体育指導 楽しい授業づくりの超基本シリーズ
14 成功する授業の視点「高田四原則」
15 授業の基盤「原初的なおもしろさ」
16 十分な感覚の体感と技の向上
17 感覚の進化で授業を組み立てる
18 勇気も根性も不要)
19 「体育が苦手」はどこから来るか
体育指導 研究と実践シリーズ
20 研究「ICT教育」
21 研究「主体的・対話的で深い学び」
22 教えることをためらわない