体育が苦手ということ
子ども時代は、体育が得意であることはある種のステータスである。体育が得意だと、何となく学級の中でも存在感があり、本人もちょっとした優越感を持つことができる。
理由は、原初的なものからもいろいろと推定はできるが、ここでは主旨ではないので割愛する。
反対に言えば、体育が苦手であると、どこかしら劣等感を感じる。子どもの頃にそうした思いを持っていた人も多いだろう。私もその一人である。
さて、体育が得意といっても、全ての種目を見ているわけではないように思う。
小学校の体育で扱うものを見たときに、次のものができればいいのではないかという仮説である。
陸上運動では、足が速い。(相対的なもので、タイム何秒以下というのはない。)
鉄棒運動で、逆上がりができる。
跳び箱運動で、開脚跳びができる。
水泳で、25m泳ぐことができる。(低学年や中学年は少し違う。)
これに縄跳びで二重跳びができる。(学校でやっていなければ、含まれない。)
独断と偏見であろうが、上記のものができていれば、少なくとも「自分は体育が苦手だ」とは思わなくてすむのではないだろうか。
野球やサッカーなどは習っている子どもとそうでない子どもの差がはっきりしていることは分かっている。ドッジボールは一時期子どもたちの意識の上の方にあるが、高学年になるにしたがって落ちていく。そもそも次第にやらなくなる。
体育を得意(少なくとも苦手ではない)と思う感覚は、日常の授業における運動量に影響を与える。
自分が得意だと思う子どもは、よく動く。苦手だと思う子どもは、活動そのものを避けようとする。同じ跳び箱の授業の中でも、得意だと思う子どもは何回も跳んでいるが、苦手だと思う子どもは、何となく順番を譲ったりして活動の回数が減る。
かくして、能力差が拡大再生産されていく。
上記の運動は、できるようにするための指導法が確立している。
教師が年間の指導のどこかで意図的に仕組んでいき、できるようにさせていけばそれだけで、子どもの運動に対する劣等感のようなものが払拭できるかもしれない。
体育指導 楽しい授業づくりの超基本シリーズ
14 成功する授業の視点「高田四原則」
15 授業の基盤「原初的なおもしろさ」
16 十分な感覚の体感と技の向上
17 感覚の進化で授業を組み立てる
18 勇気も根性も不要
19 「体育が苦手」はどこから来るか
体育指導 研究と実践シリーズ
20 研究「ICT教育」
21 研究「主体的・対話的で深い学び」
22 教えることをためらわない