「箱」の中の異端 ネットワークの人材

学級経営

第2章5節 「学級とは広大な人間関係ネットワークの一部」 の続き
「箱」の中の異端はネットワークでの人材

 学級を一つの「箱」だととらえ、そこに子どもたちを入れようと考えると、教師の思考は自然と「同質」を目指すようになる。
 同じことをさせ、同じように行動し、同じように考えることを、目指すようになる。
 なぜなら効率がいいからである。

 もちろん、授業を行う時に、時間も内容もばらばらであることなどは無理に決まっている。
 現在の学校制度の物理的環境の中では、それを解放するのは難しいだろう。
 しかし、そうしたシステムの中で生活しているうちに、次第に「同質」であることが当たり前であり、より一層「同質」の方向へとシフトしていく。

 学習の理解の度合いは、同じようなレベルであってほしい。
 子どもたちに意見を聞いた時も教師の想像する範囲の中での許容しか認められない。
 教師の想像を超えるようなアイデアや行動が出てくると、戸惑う。それだけでなく、奇抜であることを何となく丸め込んで「平凡」に収めてしまう。

 ルールを破ったり、人に危害を加えたりするような言動は、当然許されない。それは、組織でなくても社会にはルールがあるのと同じである。
 街中を歩く人たちは「組織」ではないし、同じことをさせられる義務もない。しかし、道にごみを落とすのはよくないし、通りすがりの人を傷つければ当然犯罪となる。

 学級が「組織」ではなく、ただの「社会」だとしても、そこにはルールやマナーは存在するのは当然のことである。

 そこで指導者である教師は、意識、無意識に関わらず、一層の「同質」を求めてしまう。
 「みんなで遊ぶ日」を決めているにも関わらず「遊びたくない」という子どもがいたら、いい気はしない。なだめたり、時には叱ったりして遊ばせようとする。

 同じことを考え、同じような行動をしてくれることを、漠然と望んでしまう。
 これが「箱の中の同質性」である。

 子どもたちをネットワークだと考えてみよう。
 子どもたちが仮に全く同じ思考をし、同じ行動をとるようであれば、ネットワークは実に面白くない。
 飛び交う情報は、自分が持っているものと同じであるため、交流する必要はない。
 アイデアも、解決策も、自分とは違うものが存在しないため、友だちの話を聞きに行こうとも思わない。
 遊びを考えても、みんな同じことを考え、毎日同じ遊びしかしないなら、実につまらないだろう。

 子どもたちの休み時間を見ると(自分たちも子どもの頃そうだったと記憶するが)ある時誰かがおもしろそうな遊びを見つけたり、始めたりすると、興味のある子どもたちがよってきて、みんなでするようになる。
 それは次の遊びがはやるまで、しばらく続く。
 そして、また次の遊びが見つけられ、そこに流れていく・・・

 これも一時的なネットワークの収束と分解の現象と言えるだろう。
 こう考えていくと、ネットワークの中ではいろんな考えがあり、それが自由に飛び交っている方が知的でおもしろい。

 現実のネット社会がそうであるように。
 そして、あるものが流行したとしても、必ずしも全員がそこに向かわず、少数は靡かないことがある。それもまた健全な状況である。

 情報の集まりや、関心の度合いは、人によって異なるために、ネットワークは常に動的に変化している。

 そう考えると、同質であろうとするネットワークよりは、いろいろな考えや情報があった方がおもしろくはなる。
 「箱の中」では異端に見えたものが、ネットワークの中では貴重な「人材」「情報源」となる可能性は大きい。

 すなわち、それは今ある人の集まりを「箱」と見るか、ネットワークと見るかによって、個々の存在の見え方も変わるということである。

特に教室の場合は、教師の見え方や価値観が大きな影響を与えることは言うまでもない。

第3章1節 「学級の「初期化」 高ストレスと情報収集」 続く
本編 「21世紀型学級経営 学級ネットワーク論」

 

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