第1章1節 そもそも学級は「集団」「組織」なのか より
学級は「社会」と呼ぶ方が近い。
冒頭から「そもそも何を言っているのか」と思われるかもしれない。
しかし、ここは一度ていねいに考えていった方がいい。
現在、我が国の学校制度がいろいろな部分で軋みが出ていると言われている。私も、その考えに近い立ち位置にいる。
どんな制度やシステムも、いつかは耐用年数を迎える。
我が国の学校制度は、かなり優秀なシステムだと思っているが、それでも時代の変化の中で身動きが取れずにいる現状をいくつも見てきた。
システムがあまりに巨大すぎて、誰もが、どこから手を付けていいのか分からない状態にも見える。
その制度疲労の原因を根源から考えていかないと、いつまでも場当たり的な対応方法を繰り返すだけとなり、それが一層状況をひどくしていることもある。
学級は「集団」でも「組織」でもない、と言い切ると、こう反論があるだろう。
「では、子どもたちはそれぞれに勝手になんでもやっていいのか。」と。
結論を言えば、もちろん「否」である。
人が複数集まって生活をする限り、そこに一定のルールは存在する。
街中を歩いているときに、互いに迷惑をかけないように行動に制限はかかっている。それは法律であったり、道徳であったり、文化であったりする。
しかし、街中を歩いている人の集まりを「集団」とか「組織」とは呼ばない。
一定の目的や目標を共有しているわけではないからだ。
「集団」「組織」とは呼べなくても、「社会」と呼ぶことは可能だろう。
学級はどちらかと言えば「社会」に近い。
ある共通の目的や目標をもって、そこに存在しているわけではない。
(目的な目標という点で言えば、塾や習い事の方がはるかに強烈にある。)
学級の目標というものは、担任教師が学級が編成された後に作るものである。そもそも学級という存在自体に目標があるわけではない。
地域、年齢、人数などによって便宜的に分けられ、「教室」という収めただけに過ぎない。
学級を「組織」とみなさず、もっとゆるやかな「社会」とみなすことで、今までに「ねばならない」と思っていた常識から解放される面がかなりある。
それは子どもだけでなく、場合によっては教師の負担をも軽くする。
「組織」であれ「社会」であれ、そこで生活をする以上、互いを傷つけず、できれば楽しく快適に過ごせるためのルールは必要である。それは街中を歩いている時にもルールがあるのと同じである。
学級が「集団」や「組織」でなくても「社会」であると規定するなら、今まで通りルールは必要となる。
ただし、そのルールの目的や強制力のあり方は、大きく異なってくる。
街中を歩く人へのルールと、軍隊に所属したときのルールが、全く違うものであることと同じ原理である。スポーツチームのルールとも異なる。
ルールはそこにいる人間の集まり方によって変わってくる。
念のために申し添えると、学級を軍隊と言っているのではない。ルールとは、そこにいる人のありようによって大きく変わるものであり、一律に同じものと考えない方がいいという例に過ぎない。
ただ、ルールの性質を考えていくという思考は今後不可欠になる。
教室を「組織」ではなく「社会」と見ましょう、と言われてもすぐに納得する人は少ないだろう。
それを百も承知で論を展開している。
これ以下の論は、本来「組織」ではなかった学級を「組織」とみなすことで、学校教育を進めてきたこの巨大なシステムと文化に一石を投じなければ、根本の問題解決に踏み込めないと考えているからである。
学級を「組織」だと見なそうと奮闘しつつ、それが限界にきて失敗し、しなくていい崩壊をしてしまっている現状があちこちに存在すると考えている。
とりわけ子どもたちの中から「そもそも論」を突き付けられて、大人が右往左往しているようにも見えるのである。
第1章3節 教室という「箱」の存在が教師の思考を縛ってきた へ続く
本編 「21世紀型学級経営 学級ネットワーク論」