【不思議な(と思った)教育技術?】
授業の冒頭で教師が「めあて」を板書する。子どもがそれを写す。写していると、その速さに個人差が生じる。
早く終わった子どもから手を挙げる。
教師がある子どもを指名する。その子どもが今書いた「めあて」を読み上げる。
読み終わったところで、また子どもたちから手が挙がる。先ほどの子どもが指名する。
2番目の子どもがまた「めあて」を読む。そして・・・
3~4人繰り返すころ、ほぼ全員が「めあて」を写し終わる。
そのタイミングを見計らって、教師が指名をやめさせ、最後に全員で「めあて」を読み、活動が始まる。
いわば時間調整のための工夫なのだろう。
いろんな人がやってたし、またこの話をいろんな人が知っていた。きっと、それなりに広まっているのだろう。
全国的にはどうなのだろうか。地元のローカルルール?
授業風景を見たときに感じた不思議な感覚の原因が何なのか、自分で考えてみた。
研究授業でやっていたということは、きっと子どもたちには日常的な風景なのだろう。座学的な学習の場合は、ほぼ毎時間これをやっていると推定する。
これをやると、発表したいと思う子どもたちが出てきて、急いで書くようになる・・・のかな。
それもあるかもしれないが、メインではあるまい。
きっと発表しなくていいと思う子どもたちも出てくるだろう。
そもそも、授業では教師が板書した「めあて」を子どもがノートに写すということが大前提となっている指示であろう。
時間差を解消することが目的ではあるが、そもそも板書された「めあて」をノートに写すことは大前提なのか?
やはり気になるのは、そこである。
よく世間で「学校あるある」と批判される、学校独自のルールが存在する。
見れば、その本来の意味が伝わってないものもあれば、時代と共に不要になったにも関わらず、やめ切らず残っているというルールもある。中には本当に変?と思うルールもある。
この一連の作業。
世間はどう見るのか。反対に、現場の教師はこれを世間に何と説明するのか。
個人差解消の説明をした後で、「そもそもなんでノートに写さなければならないんですか」と聞かれたら、何と答えるのだろう。
子どもたちが学力を身につけるために必須の条件と言い切れるのだろうか。
多くの教師が「めあて視写」が所与の条件となっていることへの対応策と考え、前提を疑えない状況にあるのでは、と思うのは偏見か。