2分の1成人式を改めて問う

現代教育論

2分の1成人式を改めて問う

 そういえば、この「2分の1成人式」も9歳で行うことになるのだろうか。
 とはいうものの、本物の成人式ですら20歳で実施することを変えないところが多いと聞くが。

 この行事が学校現場に定着してかなりの時間が経過する。実際に、成人した人の中にも子どもの頃に2分の1成人式を経験した人も多いだろう。
 地元福岡では、教育委員会も推奨するような定番行事になっている。

 これだけ長い間行われてきた行事ではあるが、その主旨を今一度考え直す時期に来ているのではないかと思っている。

 結論を先に言えば、学校では子どもたちに「学校以外の属性」の影響をなるべく受けないようにするのが原則だと考えるからである。

 塾に行ったり、習い事をしたりしている子どもが有利になるような授業はしてはならないし、旅行やイベントに連れて行ってもらえる子どもが自慢するような状況を作ってはいけない。

 学校は、学校に来ているという条件だけで極力等しく子どもたちが伸びていけるようにその場を設定すべきである。それが公教育の基本的なスタンスである。
(もちろん完全にそれを求めることはできないのが事実だが、努力は必要である。)

 当初、この行事は成人を迎えるちょうど半分の10歳になるのを機会に、自分の人生を一度振り返り、次の10年つまり成人式までを一層豊かに過ごせるようにという願いがあったように思う。
 その節目を作ることで、子どもたちが自分の生きていく道を確かめる一つの方法になったはずであった。

 ところが、この行事で今メインに行われているのは「親への感謝」ではないだろうか。
(そうでないところが多いことを願って、先を続ける。)

 もちろん、それはそれで大切なことではある。
 しかし、親に手紙を書き、それを行事の当日に(親の前で)読み、みんなで涙するという姿が恒例行事になっているのは、地元だけだろうか。

 2分の1成人式用の歌があり、盛り上がるための進行のプログラムがあり、ある決められた進行に沿って「感動」に持っていくようにすでに完成されている。

 中には、その「感動」に期待して参観にやってくる保護者もいると聞く。あまり涙を流さないような結果で終われば期待外れだったという意見が出るとか、出ないとか。もはや笑い話である。
 ドラマや映画を見に来る感覚で授業参観に来る親もいるのだ。

 子どもが親に感謝をすることを、第三者である教師が話をすることには意味があると思っている。感謝という言葉は、その対象者が強要するのはなんだかおかしな雰囲気になる。

 教師だからこそ、子どもにその話をすることができる。

 しかし、それを行事(イベント)として仕組むかどうかは全く別の問題である。
 学級、いや学年、さらには学校中の子どもたちが、保護者への感謝の気持ちを「公開」できるほど同じような状況にいるだろうか。

 家庭の状況は本当に多様になった。両親がそろっていないところも多い。(我が家もそうだったが)離婚や再婚などの話になると本当に多岐に渡る。

 親の仕事の都合で、どちらかと言えばほとんど祖父母のところで生活している子どももいる。年の離れた兄弟姉妹が面倒を見てくれているところもある。ほとんど一人で生活しているような状況の子どももいる。

 非常に残念ながら、虐待やヤングケアラーが問題になるのではと推測されるような家庭もある。

 感謝の気持ちは大切だが、それぞれの家庭でその熱量と方向は違うだろう。

 もはやそこには典型的なモデルなど存在しない。
 にもかかわらず「感謝の気持ちを公開する場」が果たして適しているのだろうか。

 教師の狭い想像の世界の中にある「理想の両親」にモデルを当てはめ、それに近づくような「感謝の手紙」を、教師は望んでいないだろうか。

 本当はそばにいてほしいけれど仕方なく一人で過ごしている子どもがいたとする。それでもきっと感謝の言葉をつづるだろう。

 その子どもが、友だちの「習い事に連れて行ってくれてありがとう。」という言葉を聞かされる必要は果たしてあるのだろうか。

 それは誰のためのイベントなのだろう。

 「いろんな家庭がある」と教師は言うだろう。間違いない事実である。しかし、それを公開する必要はない。公開させられる義務も子どもにはない。

 その多様性を、感謝の名のもとに人前にさらされる必要などないのではないか。

 「それは手紙の書き方でなんとでもなる」という教師もいるかもしれない。

 繰り返しになるが、手紙の書き方でなんとでもするような方法を使ってでも、みんなの前で手紙を読み上げるのは誰のためなのか。

 本当に感謝をしていることが、人前で言えることとは限らない。
 家族の中の特殊な状況の中で生み出される感謝だってあるはずだ。
 それをさらけ出せと言えるか。反対にそれは書かなくていいから、ありきたりのものでいいと言うのか。
 それは誰のための手紙だろう。

 それは子どもから親へひっそりと渡す手紙ではだめなのか。みんなで読み上げ、「感動」を半ば強要されるような場が必要なのか。

 その涙の意味は等しく価値のあるものなのか。本当は悲しい思いやみじめな思いをさせる子どもがいることを気づかぬふりをしているのではないか。

 社会が多様化し、それを認めるのは大切な一つの視点である。

 それはあくまでも一般論であり、「だからみんな気にしなくていいんだよ」と子どもに話すのは教師としては無責任ではないか。
 10歳の子どもに「いろんな家庭があっていいんだよ。」と一般論を語る前に、その子ども自身の幸せのあり方に寄り添うのが教師の考えるべきことだろう。

 念のために繰り返す。「感謝を公開すること」の意味を問うているのである。それが単純に盛り上がるという意味以外の教育的な価値を見出しているのだろうか。

 こんなときに「教師は善意だけど鈍感」という言葉を思い出す。

 続く。(長くなったので一度切ります。)

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