世にさまざまな仕事や学問があるが、教育を生業にする人はどこかしら自分たちが特別だと思っているところがある。自分もそうだった時がある。
「教育は生身の人間を扱うから、実験はできない。一般化もできない。」
と思っている人が多い。
しかし、結局のところ人間を対象とする仕事も学問も、ほかにたくさん存在する。
「モノを売ることは数字にできる」というが、モノが勝手にどこかに行くわけではない。物理の法則のように重力などの影響を受けるわけでもない。
モノを買うのは結局人間である。つまり、モノを売るとは、買ってくれる人を対象とする仕事であり、そこには結局人間を見ることになる。
実験が可能だというが、実験によって売れるものと売れないものがはっきりするのであれば、商売をやる人はみな楽な仕事のはずだ。しかし、実際はどれだけリサーチしても本当に売れるものかどうかは、市場に出してみないと分からない。
「教育技術」という言葉が広まりだしたころ、猛烈な反発があったことを記憶している。
「子どもはモノではない。」「技術で子どもをコントロールするなど非人間的だ。」などなど・・。
当時から、なぜ医療技術の存在が認められながら、教育技術の存在が否定されるのか分からなかった。人間を対象とするというのなら、医学の方がはるかに重いと言えないのか。なぜならそこには死の危険がまとわりついているからである。
経済も、政治も、法律も、いずれも人の営みを対象とするものであり、そこに算数のような答えが見つかっているわけでもない。
自分が教育の立場にいるという自覚の下で、あえて言う。
教育を特別な仕事、特別な学問だと思うのは、教育関係者の思い上がりであると思っている。
教育を神聖なものと思うこと自体に悪いことはない。しかし、それを言えば他の学問も仕事も同じように神聖である。
教育が完全に個別的なものであるのなら、学校制度そのものが崩壊する。(ほぼ)同年代の子どもたちは、ほぼ同じような成長過程をたどるという仮説の下に存在しているからだ。
教育課程も、使っている教科書もすべて否定されなければならない。
乳幼児を育てる時の月齢のイメージも否定されなければならない。しかし、概ねに多様な時間を経て似たような成長の過程をたどることは分かっている。
教師だと、子どもをパッと見ただけでおよそ何年生くらいかは分かる。完全に言い当てることは無理でも、1年生と2年生というわずか一年間の違いでも見当がつく。
このような見え方そのものがある種の経験則として存在している以上、教育にもある種の原理や原則はあると言えるだろう。
教師が研究授業をするときに「子どもが違うから、結果も違う」という人がいる。
ある意味、正論である。しかし、そう言い切ることによって、生じる違いの原因がどこにあるのかという分析を放棄した状態が続いてきた。
だからいつまで経っても、何も変わらない。