あいさつの例を紹介した。(文末にリンクを列記しています。)
初めて聞くと、とても堅苦しく思える。そこまでしなくてはいけないのか、と面倒に思ったり、強制された感覚に拒否感を感じたりする。
しかし、社会通念上あいさつの仕方は常識として広まっている。デパートの店員さんやホテルマンなど訓練を受けている人たちはみなできている。意識してみてみると、その所作の美しさには心地よい感覚がある。そして、自分もていねいに対応しようと思うようになる。
<子どもをほめたとき>
意外に思うかもしれないが、子どもはほめられたときに、どう対応していいか知らない。
はにかんでいる姿もかわいいけれど、ここは指導が必要だ。
「今日の自学はていねいにできていたね」などと声をかける。子どもはにこにこしているが何も言わない。
「あのね、そういうときはね、ありがとうございますって言うんだよ。」と伝え、「もう一度やるよ。」とビデオテープを巻き戻したように同じセリフをいう。「今日の自学は・・」
すると、子どもが「ありがとうございます」という。その返礼をほめればいい。
雑談だけでなく、授業の場や子どもたちがたくさんいるような場で、この指導をするのもいい。一人に教えることで、他の子どもたちにも型を教えることになる。
こうした型は、失敗をしたときにはまず「ごめんなさい」を言うことや、訪ねることがあるときに「すみません」ということなど、応用例はたくさんある。
大切なことは「まず教える」ことだ。教えなくてもできる子どもたちもいる。それは、すでに誰からか教えてもらっている結果なのである。天性の所作など存在しない。
あなたが教えたのでなければ、ほかのだれかが教えてくれただけである。
教師は批評家ではなく指導者である。
今できていない子どもたちには、未来のために今指導をするのである。
今の指導によって、未来の子どもたちが「君は立派だねえ」とほめられるようになるのである。
所作の型を教えると、子どもの立ち居振る舞いが美しくなる。これはやってみるとわかる。
<おまけのエピソード>
一年生の学級で授業をさせてもらった時の話である。平仮名の指導を行った。
一文字書いたところで、机間巡視をする。
ある子どもの書いたものを見て「じょうずだね~!」と全員に聞こえるようにほめた。
子どももにこにこしている。
その子の耳元で内緒話のように(でも実際はみんなに聞こえている)話す。
「あのね、こういうときは『ありがとうございます』って言うんだよ。もう一度やってみるね。」
普段の声でもう一度「うわあ~、じょうずだねえ~」と言って、耳を澄ませる動作をする。
その子が「ありがとうございます。」という。
すかさず「うわあ~、『ありがとうございます』も言えるんだ。さすがだねえ。」とまたほめる。
別の子どものノートを見る。
また同じようにほめる。そして、耳を澄ませる動作をする。→これがポイント。
その子も「ありがとうございます。」という。(それはそうだろう。笑)
「君も『ありがとうございます』が言えるんだねえ。」とまたほめる。
これを1時間の授業中で、できるだけ多くの子どもたちとやりとりする。
最後は「1年〇組の子どもたちはみんな立派だねえ。字も上手だし、あいさつもきちんとできる。」とまとめをする。
実にいい時間である。
こんな授業をした後に、教室を出るときには、子どもたちから「ありがとうございました~!」と自然とお礼の言葉が飛び出してきたりする。
言ってくれている子どもたちの笑顔がまた素敵なのである。
<おまけのエピソード 2>
私自身の昔話である。
小学校高学年から、将棋にはまった。
本を読んだり、その時に学校のクラブ活動で将棋クラブに参加したりしていた。
しかし、ちょっとレベルの高い対戦相手が欲しいと思っていた。
父のいなかった私には、大人の相手がいなかったのだが、時折遊びに来てくれる叔父は将棋がそれなりにできた。
私は、遊びに来てもらうたびに相手をお願いしていた・・・とここまではいいのだが。
小学校高学年までは、いわゆるため口で「おじちゃん、将棋やろう。」と言えた。
しかし、中学生になったときに、いざお願いしようと思って、考え込んだ。
もう中学生なのだから、敬語で話さなければならないのではないか。
しかし、突然敬語で話すのもなんだかおかしくないか。照れくさい思いもある。
その時の私は、心の中では将棋がしたくてたまらなかったのに、お願いの仕方が分からないという(今にして思えば)実につまらない理由で、結局その日は頼めなかったのだ。(笑)
当時の自分を思い出して、今の思春期の子どもたちを想像する。
この子どもたちの中にも当時の自分のように、何と話していいのか分からなくて、ぶっきらぼうにしているように見えてしまっている子どもたちもいるのではないか、と。
だから、高学年を持ったら「こんな時は、こういう風に言うんだよ。」と教えることにしている。
子どもたちは、意外と誰からも教えてもらっていないものだ。
先の一年生のように、一度教えると多様な使い方を理解できる子どもたちもまた出てくるものだ。
朝の会・帰りの会・あいさつシリーズ 子どもに所作の美しさをマナーの大切さを少しずつ教える
朝の会は基本的に不要
帰りの会も基本的に不要
あいさつの所作1 基本 朝のあいさつ
あいさつの所作2 応用 帰り・給食のあいさつ
あいさつ 個人でできてこそ
あいさつ その価値を教える
所作が美しい子ども お礼が言える子どもを育てる
中途半端な活動は負の教育になる しなくていいことを教える教育