通信表の所見の書き方 その4
所見を書くために、自分の書き方のパターンをつかんでおくといい。
どうしても、同じような言葉ばかりが浮かんでしまうという教師も多いだろう。それはある意味仕方のないことである。
なぜなら、自分が価値あると判断することが教育の内容になっているからである。
例えば、掃除を熱心にすることがいいことだと思っているとする。
すると、日ごろから掃除の指導については無意識のうちに、力が入ることになる。子どもたちの様子もよく見ているだろうし、だからよく頑張っている子どもたちの姿も記憶に残るようになる。
それはそれで、自分の中で大切にしておくといい。
所見を書いていると自分が何に力を入れて指導をしてきたのか、無意識の発見ができる。
まずは、それに従って書ける範囲で書いてみるといい。
やがて掃除だけでは書けなくなることにすぐに気づく。
学校生活は掃除だけやっているわけではないので、他にも書かなければならない。
そこから自分の教師としての目が問われる。
掃除以外のどんなところに目を向けているか思い出す。ほとんどの場合は、掃除一点しか見ていないことはない。
学習の様子や遊んでいる時の様子などを思い出すだろう。
こうして思い起こせる項目を頼りに、子どもたちを見ていく。
掃除なら掃除だけで、書ける子どもたちに書いていく。
次に係活動、給食などと書いていく。
もちろん学習の中でも、ノートのていねいさ、友だちとの交流など、いくつもの観点を自分で作り出して、下書きを埋めていくといい。
それでもどうしても書けない子どもが出てくるときがある。その子に目を配っていなかったことを心の中で詫びながら、残りの期間、よく見ていく。
すでにこの段階で、いくつもの観点で子どもたちを見ているので、集中して見て行けばいろいろと「思い出す」ことがある。見ていなかったのではなく、記憶のふたが閉じていただけである。
よく具体的なエピソードを一つ入れておくといい、と指導されることがある。
抽象的で一般的な内容よりも、「こんなところまで見てくれていたんだ。」と思わせるような一文があると、子どもも保護者も確かにうれしい。
しかし、逆効果になることもある。
例えば、ある国語の学習での発言がよかった、と書いたとしよう。
確かに優れた発言であったかもしれないが、とり方によっては、長い学期の間に他にいいところは何もなかったのかと疑問視される危険もある。
これは具体的なエピソードが汎化されていないためである。
先の国語の発表を例にとれば、その発表を例にあげつつ、学級をリードする姿を評価しているのか、文学への鋭い分析を評価しているのか、討論という場での論の組み立てを評価しているのか、分からない場合がある。
その発表から、その子の何が優れているのかを明記することで、発表がその一例を示しているのだという書き方が必要になるのだ。
通信表の所見シリーズ
1 指導に一貫性を持たせよう
2 所見ではほめよう
3 それは過去を見るもの
4 自分の書き方のパターンをつかむ