授業参観の大原則
保護者は我が子を見るために授業参観にやってくるのである。
我が子が、学級の中でどんな様子でいるのかを知りたいから、時間を使って学校にやってくるのである。
我が子が、学級の中で楽しくなかよく過ごしていてくれたらいいなと思っている。
学習にも進んで参加し、内容もよく理解してくれていたらいいなと思っている。
できれば手を挙げ、自分から発言などしてくれたら、なおいいなと思っている。
その我が子の様子を軸にしてみながら、周りの友だちの様子を見ている。あるいは教師の立ち居振る舞いを見ている。子どもと教師のやりとりを見ている。
学級の雰囲気を読み取ろうとする。
そのついでに、掲示されている絵や習字や係活動などを見て、我が子と学級の様子を知ろうとする。
(掲示物は意識がゼロとは言わないが、優先順位が教師のイメージとは違う。)
保護者の視線は、我が子を起点にして、同心円状に広げていきながら、周りの様子をつかんでいこうとする。
まずは我が子の様子を見て、よくがんばっているなあと思えば、その理由を周りから見つけようとする。教師の教え方がいいのか、友だちもみんな同じなのか、助け合っているのか、などなど。
逆もまた同じである。つまらなそうにしている姿を見たら、その理由も周りから探そうとする。授業が難しいのか、簡単すぎるのか、教師が暗い顔をしているのか、友だちとの仲がよくないのかなどなど、同じものを見るにしても、我が子の様子次第で全ては違って見えてくる。
どれほどに他の子どもたちが活躍していようと、我が子がどうなのかが気になるのが、親心というものだ。我が子の様子を見て安心して、初めて他の子どもたちの様子にも意識が行くようになる。
このことが分かっていないままに、授業参観を考えようとすると、失敗する。
念のために、繰り返しておく。
我が子を中心に同心円状に学級を見ると書いたが、当然のごとく、その中に担任教師の存在も含まれることを忘れてはいけない。教師もまた見られているのである。
ただし、単に一人の人間として見られているのではなく、我が子との関わりにおいてどうなのかとみられている。
これは、全ての子どもと個別につながっていることを見るという意味ではない。
1時間の授業の中で、一人一人とやり取りをする姿を見せることができるのなら、それはすばらしいだろうが、現実的には難しい。
多くの保護者は、始業式から参観当日に至るまでの間に、すでに子どもの口から担任について話を聞いているだろう。
そのイメージと、実際の姿を比べながら授業を見るのだ。
子どもへの言葉かけ、反対に子どもの言葉の受け取り方、そうした立ち居振る舞いや表情を見ようとするだろう。
同時に、教師の言葉への子どもの反応も見える。
教師が指示をしたときの子どもたちの動きや、何気ない話を笑顔で聞いているかなどを雰囲気として感じ取る。
しかし、こうしたやりとりは研究授業のときだけ取り繕えるものでもない。
言ってしまえば、始業式からすでに始まっていることなのだと、心にとめておいた方がいい。
ところで、参観の授業を考えるときに、校内の研究授業を見せるような感覚で準備をしてしまう教師がいる。
校内の研究授業のスタイルのままで子どもたちが張り切るのなら問題ないが、残念ながら研究授業と参観授業は乖離してしまっている。はっきり言えば、研究授業のようなスタイルは、大半がおもしろくない。(おもしろい研究授業をしている方には申し訳ない発言であるが。)
そのため、せっかくのチャンスをぶち壊して授業を終えることもある。
子どもたちの活躍の場を見せるチャンスだと、思い切り振り切って考えた方がいい参観授業になるかもしれない。
ただし、だからと言って「〇〇の発表会をしよう」というような子どもに丸投げの活動は、意外に不評なのである。
授業参観シリーズ
01 保護者は我が子を見に来る
02 ネタの向こうに見えるもの
03 算数ノートを見てもらう
04 全部見てもらう
05 保護者を巻き込む授業+おまけ