計算ドリルによる大量練習は不要

学校システム

計算ドリル不要論

 計算ドリルを使った大量の反復練習は不要である。場合によっては弊害を引き起こす可能性もある。

 以下、理由を述べる。
 主として計算ドリルは筆算を中心とした計算練習の反復に充てられる。
 筆算は大きく二つの構造に分けることができる。

 一つが、一桁の加減乗除である。
 加法の「0+0=0」から「9+9=18」までの100パターン。
 乗法の「0×0=0」から「9×9=81」までの100パターン。
 そして加法を逆転させた減法(例「18-9=9」これを一桁の減法とする。)
 及び乗法を逆転させた除法(例「81÷9=9」これを一桁の除法とする。)

 これらを組み合わせて、筆算は構成されている。

 もう一つが、アルゴリズムすなわち計算の手順である。
 一桁の加減乗除を手順通りに処理していけば、どれほど複雑な計算であろうと、必ず処理できる。

 筆算ができないということは、上記二つのいずれかに課題がある。
 だから、できるように指導するには、この二つのいずれか、あるいは両方を確実に定着させることを考えればいい。

 一桁の加減乗除については、別項で述べている。
 仮に一定の水準までできていると仮定するならば、後はアルゴリズムの処理だけが課題である。

 先にも述べたように、手順通りに正確に進めればいいのだから、学習内容の中心はその手順の定着となる。

 新しい学習内容を定着させるときには、速さよりもていねいさである。
 一つ一つの問題を、確実に処理していきながら答えに行きつくという過程を通る体験を何度もさせていく。

 大量の計算問題を処理させようとすると、一つに欠ける時間は相対的に短くなる。
 正解かどうかを意識する前に、まず全てを終わってしまおうという意識が働くのは無理からぬことである。
 大量の問題を処理させると、処理そのものもが粗雑になるのだ。
 結果的にアルゴリズムの定着が不安定になるのは、本末転倒である。
 苦手な子どもたちほど、計算ドリルを終わらせるのに大量の時間を必要とするだろう。そうすると、一問一問が正確かどうかよりも、まずは終わらせることの方が意識の中で優先される。
 場合によっては、間違っていようがともかく終わればいいという感覚にすらなる。

 思考しない反復練習、大量の課題の消費、ていねいさの欠如・・・苦手な子どもたちほど、学習への意欲と定着度を下げていく。
 計算ドリルが好きな子どもも実際にはいる。
 それは、ある程度できる子どもたちである。しかし、この子どもたちも単純な反復練習によって勉強した気になっているだけで(ノートは大量に消費される)、さらに高い水準の数理的処理が求められるような練習をするつもりにはなっていない場合が多い。

 これをあえて、少ない課題とする。代わりにミスを一切しないことを目指させる。
 問題数が少ない分だけ、一つの問題にかける時間を長く取ることができる。アルゴリズムを意識し、ていねいに解こうとする。
 少量の問題をていねいに処理させると、微細な部分に目が届くようになる。
 このていねいさが定着への大切な基盤となる。

 授業では教科書に載っている練習問題を6~10問程度、家庭でも6問程度解くだけで内容的には十分である。
 代わりに答え合わせとやり直しを確実に行わせる。
 多くの失敗例は、このやりなおしに問題がある。そこに教師の手が入らず、代わりに大量問題を与えることで代替している。

 かつて担任時代も、教務や教頭として単元を丸ごと指導したときも、教科書プラスアルファ程度の計算練習で、市販テストの平均点はほとんどが90点から95点レベルだった。

 むしろ、日々の問題数が少ないことで、一問を確実に解いていこうとする姿勢が子どもたちに出てくる。

 同じ成果を出すなら、大量の問題による粗雑な処理をさせるよりは、少量精鋭の問題を処理させることで正確さ、ていねいさを求めた方が効果がある。

 ちなみに、一桁の加減乗除が不安定な場合は、別の手立てが必要である。(参照  )
 しかし、これも計算ドリルで筆算の練習を大量にやっても、一桁の計算力が伸びるわけではない。
 バスケットボールでドリブルシュートができない人が、いくら試合に出てもドリブルシュートができるようになるわけではないのと同じだ。
 この場合は、ドリブルシュートそのものを一定量練習しできるようになったところで(つまり定着したところで)試合の中で使いこなせるようにしていくというステップを取らなければならない。
 ここでも大量の練習が成果を生まないことは明らかなのである。

 このほか、スポーツでも反復練習の重要性は言われるだろう。しかし、間違ったフォームや練習方法で回数を重ねても、上達はしない。
 バスケットのシュート練習でも、野球の投球練習でも、フォームを常に確認し修正しながら、正しいフォームを身につけるように反復した方がいい。雑な練習は間違いを定着させるだけである。
 音楽でのリコーダーをはじめとする楽器の練習でも同じである。ゆっくりでいいからミスをしないように練習をしていく。やがて、ミスがなくなれば自然と速くできるようになる。

 教師も同じではないか。
 毎週10時間分の指導案を書いて、管理職に提出しろと言われたら、1回あたりの内容はそれほど吟味されず、ともかく提出することを優先しないだろうか。
 代わりに年に一度、指導案を書いて授業を見せろと言われれば、その内容はかなり吟味するだろう。
 是非はともかく、そうした思考になるのは、ある意味自然なことである。
(その意味では初任研で、毎週指導案を書かせることにあまり有効性を感じないのだが、ここでは深く論じないでおく。)

 その是非はともかく、量と質は時として相反する場合があるという例である。
 計算ドリルを使った大量の練習はその典型である。

 一度教師がそれを体感すると、むしろ大量計算の雑な部分の方が気になってくるはずだ。

 最後に・・・
 計算ドリルを言われた通りこなす子どもたちに、通信表の「意欲」(かつての「興味・関心・態度」)で高評価を付けようとする教師がいる。

 これは、言われた通りに、単純な課題を処理することが、学びにとっていいことであると、暗に教えこんでいることにならないか。
 算数や数学の数理を使って、日常生活の課題を解決していこうとか、より難度の高い応用問題や活用問題を解いていこうとはせずに、単純な日々の反復が奨励されている。
(口でいくら言おうが、日常生活で日々ドリルの宿題しか出さなければ、子どもは何を見るか。)
 子どもたちが、より高いレベルに行くはずがない。
 教師の思想が、子どもたちにくっきりと反映している悪しき例である。

 日本の子どもたちは、難しい問題を見て空欄のままでいることが多いと言われる。
 これは計算ドリルを粛々と進める子どもを評価してきたせいかもしれないと、思っている。

 子どもだって一日には24時間しかないのだ。その課題によって、子どもにとってどんな時間を使うことになるのか、考える時期に来ている。
 教師の出す課題は、そのまま学びの質や方向性をも示唆しているのだ。

 くどいようだが、繰り返す。
 計算ドリルを繰り返させなくても、計算力は身に付くのだ。課題設定にドリル一択はあり得ない。

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