第2章4節 現代社会のネットワークは多様な層で成立している の続き
学級は広大な人間関係ネットワークの一部に過ぎない
学級における子どもたちをネットワークとしてとらえることができる。
この発想はさらに延長することが可能だ。
学級の子どもたちは、隣の学級の子どもたちともネットワークを形成している例はいくらでも挙げられる。
昨年度まで同じ学級だった。家が近くで、小さいころからよく遊んでいた。習い事が同じで放課後はよく顔を合わせている。保護者どうしが知り合いである。
もちろん、子どもたちには兄弟姉妹がいる場合もあるし、保護者もいる。学級や学校とは別のところにネットワークがある。
遠くの場所に習い事にいっていることで、そこにネットワークが存在する場合もある。
今の子どもたちであれば、スマホによって自分で仲間を見つけ、ネットワークを形成している可能性は十分にある。
ある人がさらに別の人とつながっていることを考えれば、ネットワークは無限に広がっていることがイメージできる。
学級のネットワークは、その広大なネットワークのほんの小さな一部にすぎない、ともいえる。
教室という「箱」の中で生活をしている子どもたちを見ていると、全てがそこで完結しているような錯覚に陥る。
教室にいるときは、それ以外の誰の顔も見えないからだ。
しかし、子どもたちには教室以外の広大なネットワークをそれぞれ持っている。特に現代であれば、以前よりもはるかに強くその影響を受けているだろう。
現代社会の子どもたちは、かつての子どもたちよりも、持っているネットワークがはるかに広大で多様になっている可能性が高い。
そういう子どもたちが、学校や学級の生活を絶対視しないばかりか、疑問や批判を持つことも当然に出てくるだろう。
少なくとも教師は、子どもたちが持っているネットワークの広さを自覚すべきである。
教室を「箱」だと勘違いしたままだと、そこでの秩序が全てだと思ってしまう。
すでに学級の中には無数の複雑なつながりがあり、そのつながりの相対的な関係の中で、子どもたちは自分の位置を保っている。
そのつながりは教師には見えないどこか遠いところとのつながりかもしれない。
何かの事象が生じたとき、子ども個人に原因を求めるのは一見簡単だが、安易な解決策に陥る危険はある。
例えば、けが一つとっても、それを取り巻くさまざまな関係が、誘因となっている可能性は極めて高い。
第2章6節 「箱」の中の異端はネットワークで人材となる へ続く
本編 「21世紀型学級経営 学級ネットワーク論」