「箱」の存在が思考を縛る

学級経営

第1章2節 学級は「組織」より「社会」と呼ぶ方が近い の続き
教室という「箱」の存在が思考を縛っている

 これまで学校では、教室という一定の空間の中で、子どもたちに生活をさせてきた。指導する教師の人数に対して、子どもの方が圧倒的に多いのだから当然の対応であろう。
 安全管理を考えても、ベターな選択であろうと思う。

 しかし、子どもも教師も、その物理的な空間によって、思考も影響を受けてきたように思える。
 子どもたちは、他の部屋とは分け隔てられた中で生活の大半を過ごす。
 教室という「箱」の中で過ごしている。

 教師の視点から見ても、「箱」の中に入れて安全で確実に指導するということが、当然として考えるようになってきた。

 やがて、その教室という「箱」の中に子どもたちを入れて、整然と生活をすることが、学級における目標となってきた。
 いかにはみ出さないか、整って「きちんと」しているかが重要な指針となってきた。
 「箱」から飛び出してはいけないし、「箱」の中は整然としている方がいい。
 教室という「箱」は学校の中にいくつもあるので、互いのことを考えれば、他に迷惑をかけられないというバイアスも働く。

 そもそも、制度上仕方がないのだが、教室という空間に対して、子どもの数は多い。多すぎる。だから、整然とするためには一層「圧」をかけなければならない。

 教室という「箱」の中での生活が中心となっているせいで、いつの間にか、教師の意識も子どもたちを「箱」の中の存在としてみるようになってきた。

 「箱の中」だという思考が初めにありき、だと、どうしても「整える」という発想が重点になる。
 学校のきまりも、学級の決りも、「整える」ことに重きが置かれるようになる。

 教師も意識しないうちに、そうした思考の枠組みの中で、子どもたちを動かそうとしてしまう。(これは自戒を込めて書いている。)

 これまで「学級経営の指導技術」と呼ばれるものの大半は、結局のところ「教室の中に平穏で心地よく収まること」を目標になされてきた。
(あまりに当たり前すぎて何を言っているのか分からないという人もいるかもしれない。)

 その最たるものが、特別支援教育である。
 もちろん、子どもの性格や能力を最大限に引き出すことを目指した指導方法もたくさんある。
 しかし、現場でなされる多くの実践や対応は、いかにして「教室という空間に穏やかに入れておくのか」という基盤の上に成り立っていないか。

 しかし、それは必ずしも悪いことだけとは言わない。
 そもそも教室という物理的な空間に変更が加えられない以上、人のメンタル的な部分もそこに合わせていかざるを得ないのは、仕方のないことである。

 これが一昔前の社会状況の中であれば、それほど違和感もなく過ごせてきた。
 ところが、現代社会では、この物理的空間と精神的な空間を一緒に扱うことに無理が生じてきているのだ。
 兆しは、子どもたちの習い事が多様になってきたころからあった。
 所与のものと与えられてきた「箱」の生活とは別のつながり(ネットワーク)が、子どもたちにもできるようになってきた。
 そして、そこにインターネットがさらに追い打ちをかける。
 ネットシステムの向こうに見える広大な社会の存在を知って、子どもたちは素朴に思う。
 「なぜ、日常生活は箱の中に閉じ込められているのか。」と。

 これまで通り「箱」のシステムを維持しようとする学校と子どもたちの間で少しずつ乖離が始まっていたのだと、今さらながら思っている。

 ここでの話は教室というシステムが悪であり撲滅しようと言っているのではない。
 そのような暴論を主張したところで、今日明日の問題の解決にはならない。
 大切なことは、私たちは「箱」という物理的空間によって、思考も枠組みをはめられていたのではないかと、発想の転換である。

 これからも教室がなくなるわけではない。しかし、人間関係は「整然とした箱の中」と同じではないと、思えるだけでも子どもたちの見え方が変わってくる。

 物理的な空間としての「箱」を使いつつも、精神的な空間を改善することはいくらでも可能である。

 

第1章4節 「箱」をはずすと学級は「ネットワーク」に見える へ続く
本編 「21世紀型学級経営 学級ネットワーク論」

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