経験と知識の蓄積が次に生きる

初等教育論

過去の財産を食いつぶさず、蓄積させよ

 子どもたちがお楽しみ会を企画すると想定しよう。

 教師の経験上、ドッジボール大会くらいの内容だろうと思っていたら、それはもう段取りからルールまでよく洗練された、宝探し大会が出たとする。

 担任は、子どもたちをほめ、評価するだろう。そしてこう思うだろう。「今年の子どもたちはアイデアが豊富で行動力があるなあ」と。
 しかし、子どもたちが全くゼロから宝探し大会を思いつくだろうか。そんなことは絶対にない。

 知らないことは考えることができないからである。

 つまり「今年の」担任から見れば、ゼロからの発想に見えるが、その担任の知らないうちに何らかの情報を得ていたはずである。テレビで見たのかもしれないが、ルールまで自分たちに合わせているのなら、すでにお楽しみ会でやったことがあったのかもしれない。
 おそらくは前の担任が、さまざまな企画を学級や学年で取り組んでいたであろうことは容易に想像できる。

 ここで立ち止まって考えてみよう。
 昨年までの学級で、子どもたちはお楽しみ会に関する知識や体験を蓄えていた。
 それは教師の指導によるところが大きいだろう。
 その時には担任は「教えて」いたのである。教えられたことによって、情報が蓄積され、今花が開いたように見えるのだ。

 仮に今年「自由でいいよ」と任せるだけなら、子どもたちは今持っている情報の中だけで方法を考えようとする。そして、今まで変わらないような企画で終わったとしよう。
 来年になって、この子どもたちはどんなお楽しみ会をするだろうか。およそ想像はできる。

 ある時に教え込んだと思うことは、時間の経過とともに子どもたちに蓄積され未来になって花開く。
 反対に「自由」や「独創」の名の下で新しい知識を獲得させないままでいれば、何年たっても子どもたちは変わらない。

 一年交代の担任の立場で考えれば、自分が今教えている子どもたちは将来、どんな力を発揮できるか容易に想像できるだろう。
 反対に今あるこどもたちの素晴らしさはこれまでの蓄積があってのことだ。
 今の子どもたちの関りだけで、教育の在り方を考えてはいけない。子どもは成長していく。教師は一年ごとに、前からのバトンを預かり、次につなげていく仕事をしているのだ。

 教えることに躊躇していると子どもの資産を食いつぶすだけの指導になる。

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