教育の場における感性への幻想
ずっと以前に見た生活科の研究授業の中で、子どもたちが春になってツバメの巣に「気づく」ことの素晴らしさが、その授業の協議会で評価されたことがあった。
講師としておいでになっていた指導主事も子どもの見方や感性の大切さを主張していた。
私は、今でも引っかかっている。
当時の私なら(大人なのに)、あんな店の軒下にツバメが巣をかけることなど絶対に気づかなかっただろう。
なぜなら、ツバメの巣も実際に見たことはなかったし、春になったら巣を作ることも知らなかった。
そんな店の軒下にあるなど想像すらしていない。
校区なので何度も通ったことがあったが、その研究授業を見るまで知らなかった。
以前に「情報なくして思考なし」と述べた。
これと同じである。
知らないことは考えようがない。考えようがないものは気づきもしない。
ある子どもが、そのツバメの巣に気づいたのは、何らかの情報がすでに頭の中にあったからである。ツバメの特徴を知っていたのかもしれない。巣を見たことがあったのかもしれない。親から教えてもらっていたのかもしれない。
いずれにしても、ある子どもが巣の存在に「気づいた」のは、その子どもが何らかの形で、何らかの情報を頭にインプットしていたからである。
このように、子どもたちはすでに情報のばらつきがある。量の大小もある。
その中で、今回はツバメの巣に対する事前の情報を持っていた子どもの発言を、評価しただけだと言えるのではないか。
にもかかわらず、学校の授業の中では、子どもの頭の中にある情報が一応均質であるという無責任な幻想の上に成り立っている。
だから、この授業のように「気づき」を「感性」という非常に漠然としたものに由来すると判断し、そのとりとめのないものが大切だという結論に至る。
これでは、何十回授業をしても子どもたちは変わらない。
ツバメについて何らかの情報を持っていた子どもが、今回の授業で(教師が狙っていた内容について)偶然にもその情報を引っぱり出したら、ビンゴだった、ということである。
ツバメの情報を持っている子どもが知っていることを発言したら、「君には感性がある。」と評価される。
これは反対に言えば、ツバメの情報を知らなければ、「感性はない。」ということになるのだろうか、と心配してしまう。
経験や知識に差が生じることはある。それを完全に均一にすることは無理である。
教師も、その差を前提に授業を進めていく。それが授業を組み立てるということだ。
しかし、その場において経験や知識の差を「感性の差」と言い切ってしまっていいのだろうか。
今回の生活科の授業のように、子どもから出た言葉をそのまま拾い上げて「感性」だと言い切るのは少々無謀ではないか。
反対に言えば、教師はどうやって子どもの感性を育てるのだろうか。
そもそも感性は育てられるものなのだろうか。
出てくるのを待つだけなのか。だとすれば、生活科の授業とは何なのだろう。
個々に持つ情報には質も量も差があるのだから、知らなかった子どもも、知ることができてよかったではないか、という意見もあろう。
その通りである。知らないことを知ったという点では、学びがあったであろう。
ならば、それを教師が教えるのと何が違うのだろう。いっそ教師が教えた方が、より確実にほとんどの子どもたちに情報は生き渡る。