あらゆる思考は、脳の中にある情報をもとになされる。
逆に言えば、脳の中にない、つまり知らないことを考えるのは無理である。
例えば、一つ問いを出す。
北極海に住む新種の魚の生態についてあなたの意見をください。
こんな問いに、読者諸氏はなんと答えるだろうか。
おそらくは、「そんなものは知りません」というしかないだろう。
どうしても答えるとすれば、「北極海」「魚」という知っている言葉から連想する。
つまり、知らないことは考えようがないから、一番関連ありそうな情報の中から推定していくしかないのだ。これは、子どもでも大人でも同じである。
「新しいことがひらめいた」ということが時折ある。
ところが、これも無から生まれたわけではない。
今まで持っていた情報を使って、組み合わせたり変化させたりして見出したに過ぎない。
「今は頭の中に知識がなくてもインターネットがあるではないか」という意見もある。
確かにネット上の全ての情報を頭に入れておくことは無理だし、その必要はない。
情報が欲しい時に検索をして見つければ、たいがいのことは解決する。
しかし、このネットですら、検索の方法や用語のある程度の意味など情報がなければ、探しようがない。検索窓にキーワードを入れる行為そのものが、最低限の情報を持っている証拠である。
先の例を使うなら、新種の魚について「北極海」「新種」「魚」などと入れたら、何か出てくるかもしれない。だが、その出てきた言葉が求められている魚なのかは確かめようがない。
(ちなみに北極海に新種の魚がいたかどうかは知らない。筆者の作った例え話である。)
知らないことは考えることができない、という命題は学校教育において最重要キーワードである。
なぜなら子どもたちは、そもそも情報(体験も知識も)がゼロの状態で生まれてくる。
ゼロの状態から、ものすごい速さで情報を獲得していく。
それでも、絶対的に情報量が足りていない。知識も経験も足りない。
だから、学校の授業の中で目の前に出されたモノや言葉などが、初めて出会った可能性が極めて高くなってくる。
繰り返すが、初めて出会ったモノや言葉について、考えようという方が無理な話である。
授業論の中に「子どもたちに自由に考えさせるといい」という意見があるが、それは少々夢見がちな意見である。
子どもたちは自由に考えるほどの情報量がない。そもそもが不自由な状態なのである。
「自由に」などという時には、それなりの下準備がなければならない。
しかも、就学前の環境から考えれば、生まれたときから獲得してきた情報量に大きな個人差があると考えるのが自然であろう。
多くの子どもたちのいる中で、モノや言葉を提示したときに、すでに情報を得ている子どもから、全く何も持っていない子どもたちが同時に存在することになる。
その中で「自由に」と言えばどうなるだろう。知っている子どもたちだけが活躍する授業になる可能性が極めて高くなる。
教師の授業が拙ければ、知っている子どもたちに意見を言わせながら授業を成立させるような状況となる。活躍する子どもと、したくてもできない子どもが出てくるようになる。
そもそも公教育とは、家庭や社会によって生じてしまう格差を解消するために存在するはずなのに、安易な「自由に」という発想によって、格差を助長している面があることは否定できない。
しかも、学校の方が授業論に言及しないままに、格差を家庭や社会のせいにしている面があることは否定できない。
初等教育において、独創性を求める必要はない。
結果として見えてきたものを否定する必要はないが、教える側が独創性に期待し、それに依存した授業をするほどに、子どもたちの格差は露見し、持たざる子どもたちは苦しむことになる。
かのニュートンですら「私は巨人の肩に乗っている」と自分のことを称したという。巨人つまり、先人の知恵の上に乗っているからこそ、遠くが見えたという意味である。
ましてや生まれて10年前後の子どもたちに、何を期待すればいいのだろうか。