連帯責任は古すぎる学級経営
グループ活動をやって、何かよくないことをしたときに、やってしまった子どもだけを叱らずにグループ全体を叱るという場合がある。
いわゆる「連帯責任」である。
かつては学校教育の中で、よく利用されてきた指導法である。
自分の周りで実際に見たことはないが、忘れ物をした数を一覧表にしてカウントするときに、グループ単位でカウントするような指導があったと聞く。
こうすれば、忘れ物が多い子どもがいても同じグループの子どもたちが声をかけてくれるだろうと発想が教師にはあったようだ。
グループ編成という形で、疑似的に友情の関係を創り出し、その力によって子どもを指導しようとする方法であると言えるだろう。
しかし、実際の問題では、友だちに言われたくらいで忘れ物が減るわけでもないし、自分はきちんと生活しているのに、隣の友だちの行動によって自分もよくないという烙印を押されるのは子どもとしては気持ちのいいものではない。
この方法は多くの失敗例があり、今では決して主流ではないだろう。(だからと言ってゼロでもないようだが。)
今でも修学旅行や学習遠足などでもグループ行動は多いだろう。
見知らぬ場所で個人が動くことを考えれば、安全上グループ行動を取らせることもあるだろう。
それは活動の場所や、学年によっても状況が異なるから、一概に全てを否定する必要なないだろうと思っている。
また、修学旅行や学習遠足は、学校生活の中で一過性のものである。昨日も今日も、そして明日も影響を受けるというものではない。だから、むしろいい影響を与える場合もある。
(学級内に「弱いつながり」をたくさん作ることができる。)
ただ、これからはますます連帯責任というシステムは受け入れられなくなるだろう。
「箱」の中で同一性を求められていた時代とは異なり、子どもどうしが多様なつながりを形成していくようになれば、他人による不利益な状況に納得しないからである。
自ら助けの手を差し伸べるのと、半ば強制的に「仲間なんだから助けてあげろ、一緒にがんばれ。」と言われるのでは大きな違いがある。
こうした話をすると、教師の中にはなんだか冷たい学級だなと思う人が少なからずいるだろうと思う。
あえてはっきりと言えば、連帯責任とは教師の手抜きである。
本来、教師が指導すべきことを、枠をはめ込み(仲間を助けるという大義の下で)子どもたちにやらせていたシステムなのである。
これは例えば、忘れ物をした子どもがいたときに「隣の人に見せてもらいなさい。」「隣の人も借りなさい。」と指示するのも同じである。
本来ならば、隣の友だちが教科書を忘れたからといっても、自分が読みにくい状況を作ってあげてまでして、一緒に教科書を見せる必要はない。
自分は前の日から準備をしていた道具なのに、忘れた友だちに貸す必要はない。それも、習字の半紙や絵の具など消耗品であれば、単純に減ってしまうのである。
これらは連帯責任ではないが、不都合を一緒に背負わされているという点では同じだ。
こうした友情の名を借りて、教師がむりやり接点を持たせることは、むしろネットワークを壊すことになりかねない。
私は基本的に、物の貸し借りは一切禁止にしていた。習字の半紙1枚と手同じである。
のりもはさみも、全て教師が貸し出す。習字道具を忘れた場合は、家で書いてくるというシステムだった。
個々の失敗は、それぞれが自分で責任を取るシステムとする。
そうすればむしろ、助けてくれる友だちが出てくる。絵の具や墨汁のような貸したら返ってこないものは、それでも貸さなくていいと伝えていたが、それ以外のものであれば見て見ぬ振りもしていた。
案外、子どもは親切なものである。
話が横道にそれた。
子どもたちがネットワークを形成していくために必要な条件の一つに、自立がある。
個々が自立するからこそ、つながることができるのである。
自立を促す第一歩と考えても、連帯責任という発想はもはや過去の遺物でしかない。