ひっそりと生き残る「聖職論」

現代教育論

教師は聖職か

 お若い方はご存じないかもしれない。自分が若いころに「教師は聖職か」というような話があったことを記憶している。

 「聖職」という言葉に明確な定義はなかったように思うが、子どもを教育するという意味において神聖な仕事というような解釈でおよそ間違いはないだろう。

 なぜこのような古い話を引っぱり出しているかというと、現代の働き方改革を考える上で無視できない存在だからである。

 「教師は聖職である」という命題は、いろいろな立場の人がいろいろな使い方をしていた。

 「教師は子どものことを考え、自分の生活やお金を顧みずに、子どものために尽くすべきである」という考えの人は、基本的にこの立ち位置にいた。

 この考え方によるのは教師自身の中にもいたし、外から教育を見る人の中にもいた。

 言葉からイメージされる通り、この仕事を誇り高く見るためにも使えるし、自己犠牲を含めたあらゆる対応を求めるためにも使える便利な言葉である。

 聖職という言葉は、そもそもは宗教に携わる方に使われた言葉から始まったようであるが、そのまま「神聖な職業」を省略すればあらゆる仕事にも適用が可能になる。

 そこで、今さらながらこの言葉について勝手に解釈を加えてみようと思っている。

 仮に、教師が聖職であるとすれば、それ以外に聖職と呼ばれる仕事はないのかと考えてみよう。

 例えば医者は聖職ではないのだろうか。人の命を預かる仕事だから、考え方によっては教師よりも「神聖」に思える。
 しかし、感覚的に「医者が聖職者である」と呼ばれていた記憶があまりない。
 市民の安全を預かる警察や消防だって「神聖な仕事」と言えるだろう。
 食べ物を預かるあらゆる職種はどうであろうか。

 言い出したらきりがない。
 「教育は、子どもの心を扱うから特別に神聖なのだ。」というレベルの話は、「医師が命を預かる」ことと比べて何がどう違うのかを説明しようと思うだけで破綻することはお分かりだろう。
 心は命ありきだからである。

 自分の心の内に理想として掲げて、日々取り組むことには何の異論もない。
 私自身も、教職を天職だと思い、そして誇りをもって仕事をしてきた。今も同じである。
 しかし、それを他者に押し付けるのであれば、話は全く別問題ということだ。
 「教育だけが神聖な仕事」と呼ぶには多少おこがましくもある。

 今度は、教師の仕事そのものを振り返る。
 私は個人的に、この根性論的な視点に疑問をもっている。

 例えば「教師は聖職だから、子どものためにがんばらないといけない。」と言われたら、「では、どこまでがんばればいいのですか。」と聞き返したくなる。

 ある授業のためにものすごく時間もエネルギーもかけたとしよう。その教師の達成感はあるかもしれない。多少の自己犠牲的精神もあったかもしれない。

 しかし、人間だから寝なければならないし、食事もしなければならないし、家族があれば家族のことも考えなければならない。

 あえて問う。
 休み時間や放課後に、職員室で、自分が子どものノートを見たり、テストの採点をしているときに、その横で談笑したりコーヒーを飲んでいる同僚を、どんな気持ちで見ているだろうか。
 その反対に、自分の仕事が一段落して休憩をしている時に、周りを見て後ろめたく思うことはなかっただろうか。

 「聖職論」を振りかざす人が24時間働き続けているわけではない。
 どこかで(自分なりの)限界ラインを引いている。(それでいいのだ。)

 このあたりが実は非常にあいまいで、はっきり言えば自分自身の独断と偏見によって価値づけている場合が多い。

 例えば社会科の教材研究を熱心にする人がいるとしよう。
 その人が、「社会科は地域に出て自分の足で歩いて、自分の目で見て教材を作らなければならない」と主張したとする。
 こういう考えの方は割と多い。

 ところが、この「足で稼ぐ」一つにしても解釈はさまざまである。
 こうした主張をする人が、全単元を同じように準備しているかと言えば、そうでもないようだ。

 また、社会科は足で稼ぐことはなくても、理科の教材研究は人一倍熱心な人もいるかもしれない。
 その人からすれば、理科授業の準備に手間をかけない人は手抜きに見えるかもしれない。

 要するに、仕事の限界線を決め切らず、個人の思惑の中で解釈なされているだけに過ぎない。
 自分の都合のいいように「教師の仕事のあり方」が解釈されている。

 自慢をするわけではないが、私自身はおそらく教師全体の平均よりは本を読んできたと思うし、時間もエネルギーも使ってきたと思っている。
 研究授業や模擬授業の数、サークルや研究会での提案の数なども平均以上だろうと思っている。

 でも、自分は自分と同じように仕事をしろとか、あなたのレベルが低いなどとは思わない。どんなところにも上には上がいる。下には下もいる。
 いろんな人がいて、ごっちゃになっているのが人の世である。
 だから、自分は聖職だけど、自分より仕事をしていない人は聖職ではない、などと考えたりしない。そもそも言葉が大雑把だからだ。

 その中にあって、「教師は聖職である」という言葉の一人歩きは、若い時から妙に気になっていた。
 こういう大雑把なくくり方は、いつも会話がかみ合わない原因になっている。
 

 そして、このころからの使命感と仕事の量のあいまいさは、今の働き方改革の阻害要因になっていると思っている。
 人によって仕事の量と質の求め方が全然違うからである。

 今、「教師は聖職である」と言われても、何のことを言っているのか分からない人や、その言葉の語感に抵抗を感じる人は多いだろう。

 しかし、この言葉が生きていた時代の思想は、今なお現場を引きずり回している。
 無制限に仕事につくす姿を、どこかしらまだ美しい残影として残している。教師自身も、社会全体も、である。
 言葉そのものは使われなくなっても、その思想的な部分だけがひっそりと生き残っている。
 ゆえに、生産性や効率というような現代的な用語から遠いところに現場があるのだ。

 言葉が独り歩きをして、歴史を積み重ねていくうちに、それが文化や思想となって逆に人間を縛るということはよくある。

 一時期学園物のドラマがはやったのも、同じ思想を底辺に置いていると思っている。考えすぎか。(笑)

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