本業を見失うシステムになっていないか
学校の体質が少しずつ変わっているのではないかという話・・・
保護者からのクレーム(過度なものだけでなく、連絡があったもの全てを含む)があった場合、これを朝から管理職に報告をする。
これがいじめられたとか、派手なケンカをしたという場合であれば
「1時間目から自習にして、聞き取りをしてください。」
という指示が出ることがある。
緊急度の問題というよりも、管理職の判断なのだろうが。
関わる子どもたちの人数が多かったり、関係する学級が複数あったりすると、これに教務主任や教頭までも聞き取りに付き合うことがけっこうある。
目標は「午前中のうちに解決をして、保護者に連絡」ということなれば、場合によっては午前中の授業をまるまるつぶすことになる。
確かに対応が早いのは悪いことではない。
しかし、この場合予定されていた授業を行わないという意味では、ほかの大多数の子どもたちは実害を被っている可能性が高くなる。
もし万が一、待っている子どもの保護者の方から「学習権の侵害」と主張された場合の対応方法は、残念ながら私には分からない。
話は突然変わるが、今度は研究授業の話である。
ほかの項でも述べたのだが、研究授業が学校中で指導案の形式や授業の流れ、はてはチョークの色や板書の書き方まで統一してやらせるというところがある。
(参照 「研究授業シリーズ24 そろえることの愚かさ」)
ここにはもはや、授業に対する問題提起や新しい発想を求めるという思想はない。
そろっていることが「美」である。(笑)
そうした制約の中でも、授業がうまい人はやっぱりうまい。
しかしながら、お若い方が授業を考えるときには、まず制約条件が多すぎるので、その流れに会うように授業を考えることが優先される。
授業者本人が工夫するようなところは、だんだんとなくなっていく。大きな逸脱もない代わりに、特に新しい問題提起もない。
さらに残念なことに、これだけ「マニュアル化?」が進めば、もはや授業技量をどうこうと分析する必要性が薄れてくる。
だから、いい授業を見たときの感想が「ああ、〇〇先生は学級経営がいいからねえ。」となる。
もはや授業改善のための研究であったことなど、みんな忘れている。
授業への工夫や改善への後押しが減る中で、保護者対応やトラブル対応の事案は比較的増えてきているのではないか。
先にも述べたように、それで自習が増えるようであれば、そもそも学校は何のために存続しているのかという根本的な問題に触れてしまいそうである。
重ねて言えば、学校の経営案に授業の改善や工夫、あるいは学力の向上について、どれほど詳しく記載されてあるだろうか。
現場では、必要以上に他者の授業についての言及を避ける傾向があると思っている。
(参照 働き方改革シリーズ 「授業に触れたがらない」)
管理職が一つの型にはめないようにする考えのために、そのような表記の結果になっていることは分かるが、これが研究の段階で画一性を求めるのであれば、それは何という矛盾だろうかと思う。
学校教育の現実的な対応が、学力向上よりもトラブル回避に重点がかけられようとしているのであれば、それは学校教育の質的な転換になっているのではないかと危惧している。
塾などの習い事も増え、保護者も共働きが一般的になってくれば、「学校では子どもを預かってくれればそれでいい。」というような見方をされるのではないか。
実はひそかに危機的な状況が進行しているのではないかと思っている。
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