しない方がマシな準備
ある国語の授業では、不思議な準備を見た。
前の時間に子どもたちが考えを書いているプリントを集めておき、それに全部赤ペンを入れておく。
単に言葉を書き添えるのではない。教師がいいと思う意見には、二重丸や花丸を書いておく。
書かれてある人は、授業の中でその意見を発表してください、というメッセージなのである。
教師の方も、その子どもたちの意見を控えておき、どの順序で指名したらいいかを考えておくという授業の準備である。
これを「意図的指名」と呼んで奨励すらしていたという話を聞いて、さすがにひどいなあと思った。
「花丸の子どもたちは発表してください。」というメッセージだということは、そのままきれいに裏返して「花丸がついていない人たちは発表しないでください。」という意味である。
授業の前に、昨日集められていたプリントが子どもたちに返される。子どもたちは、それぞれが自分のプリントにどんな評価がなされているかを見る。
その瞬間に、(授業が始まる前から)今日の授業での評価が決まっているのです。
花丸がない子どもたちが「自分以外の人はどんなすばらしい意見を書いているのか、楽しみだなあ。」と思うだろうか。思うわけがない。なんとも残酷な授業である。
子どもたちに気を遣って、花丸は書かずに教師が控えておくだけの場合もある。これも理屈は同じである。
授業中に、教師が自分のノートを見ながら、指名をしている。しかも、本人が手を挙げていないときもある。「〇〇さん、君はいいことを書いていたから、それを言ってみて。」などと言って。
この状態を見て、教師が前の日にプリントを集めて、誰に発表させるか決めていることに気づかないと思えるのは、教師が鈍感すぎる。子どもをバカにしている。
どんな意見を書いても、教師にはすでに答えがあり、その道筋に従って予定調和的に授業を終わることが分かっている中で、授業が進むのである。おもしろいわけがない。
職員会で管理職が同じことをしていたら、きっと先生方は激怒するにちがいない。
もはや誰のため、何のための研究授業か分からない。少なくとも、子どもたちのためではなさそうである。
しかし、こうした授業がいい授業だと評価されていた時もあっただ。
こんな授業をさせられていては、教師の働き方改革など進むわけがない。