ナウマン象の牙

働き方改革

研究授業 ナウマンゾウの牙

 研究授業というシステムは、日本独特のものらしい。諸外国では、このように授業を見合って検討するという文化が教師の世界では珍しいと聞く。
 このシステムによって、日本の教師の授業技量は向上してきたという面は否定できないだろう。

 しかし、これが今の時代に適応しているかというと疑問が生じる。

 戦後に競うようにして誕生したさまざまな教育研究団体は、それぞれの主張を授業という形で表現してきた。そうした切磋琢磨的な取り組みが教師の世界全体のレベルを引き上げてきた時代もあった。

 ところが、今の研究授業というのは、どちらかと言えば「〇〇方式にそろえて」とか「学校全体で同じような流れで」というような意味合いでなされることが多いようである。教師が自分で調べて新しいことに挑んでいくという場面が少なくなっている。

 各研究団体も同じ主張を何十年も繰り返すうちに、10年回って元の場所に戻ってきているような研究結果を見ることがしばしばある。

 こうした状態を繰り返す中で、研究授業の主張は次第に微細な問題に移行してきている印象がある。

 チョークの色をどのようにそろえるといいのか、板書のレイアウトはどのように組み立てるのか、子どもたちの学習カードが必要ではないか、資料はもっと別のところから持ってきた方がいいのではないか、などなど。

 子どもたちにどうやって学習内容を理解させるか、興味を持たせるかという目的で始まった研究授業は、子どもたちを考えているようで、どこかに置いてきている感がある。

 板書のレイアウトなどその典型的な例である。そもそも書いている情報量が多すぎて、特性のある子どもたちはこれを読んで理解できるのか、板書を写すだけで授業が終わるのではないか、というような前提の議論がなされない。

 事前に準備された「板書計画」なるものが完成するように、授業が流れていく。

 今の研究授業は絶滅したナウマンゾウの牙である。はじめは身を守るためにあった牙はやがて大きくなりすぎて、その本来の価値を失っていく。むしろ牙の大きさが生きていくために邪魔になることすらある。

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