未来のためにあえて現実を直視しよう
国家を支える柱の一つである教育。
その教育に携わる教師の仕事が「ブラック」だと言われるようになって久しい。
使命感を支えに奮闘してきた各地の教師から、悲痛の声が聞こえるようになって、初めて社会も気づきだした。
現場から多くの病休者や退職者が出るようになり、その現状が少しずつ明るみに出てきた。
そして、現場の教師自身も、現状のおかしさを自覚できるようになってきた。
数年前から「働き方改革」が打ち出されているが、現段階で抜本的な解決になったとは決して言えない状況である。
この動きが始まったころに「会議の数を減らそう」などと言っていたことが、懐かしく思える。
もうそのような取り組みでは間に合わないのだ。
中学校の部活動の改善が取り上げられている。そもそも解決策がまだ出てこないことが遅すぎる。
今後、なんらかの改善策が出たところで、もはや手遅れかもしれない。
働き方の改善が進まないのは、何十年にも渡って積み上げられてきた制度や組織だけが原因なのではなく、社会にも教師自身にも浸透してしまった学校教育の文化の影響でもある。
誇りをもってこの仕事に就いた教師の多くが、このままでいいのかと思っている。
このままあと何十年も働けるのか、いや働くべきなのかという疑問が心の片隅に残っている教師はたくさんいる。
新しく教師を希望する人も減っているという。
その原因は一つではない。単に人気がなくなったというような理由だけではない。
しかし、希望者が減っていく中で、すでにその軋みは現場によくない影響を与えている。
配置されるべき教師の人数に達していない学校は、たくさん存在する。
専科教師だけでなく、教務主任やあるいは教頭、校長までもが教室に入って授業をしなければならない現状がある。
今のところ、そうした慢性的人員不足に解決の方向は見えない。
地方公共団体によっては、教員免許がなくても希望があれば、採用可能にするというところまで出てきている。
つい先日まで、教師の資質向上のためと免許更新制が維持され続け、更新していない教師は、職務を継続できないとまで言われていた。それが、今では時代も変わるものだ。
この条件の緩和は、あえて過激に言えば「ブラックを言われる職場ですし、今のところ待遇改善に大きな見込みはありませんけれど、それでもいい人は誰でもいいから来てください。」というメッセージに見える。。
かつて「でもしか教師」という言葉あった。
かつての大量採用時代に、圧倒的な人手不足が原因で、誰でも教師になれるのではないかと言われていた時代があったのだ。
そのときに「教師にでもなろう」「教師にしかなれない」という人が集まってきたという話である。そういう教師を「でもしか教師」と呼んでいた。
今はこの言葉を借りれば「令和版でもしか教師」誕生の仕組みが出来上がりつつある。
決していいとはいえない職場環境だと分かってはいるが、公務員として給料が安定していることに目を付け、専門的な勉強もしないままに、就職を希望する人が出てくる可能性があるということだ。
待遇改善をせず、間口だけを広げて人を集めようという発想では、一時的には状況が緩和するだろうが、長い目で見たときに大きな問題を残すことになるだろう。
5年後、10年後に、この国の教育に明るい未来が見える人は少ないだろう。
現状は深刻なのである。
教育の問題は日々深刻になっているのだが、それでも毎日子どもたちは学校にやってくる。現場の教師は、多くの疑問と不安を抱えながらも、最前線で職務に携わっている。
その忙しさの中で、とりあえず今日の問題を明日へと先送りしているような状況に置かれ続けているのだ。
教育現場の働き方改革をもっと根源的に考え直し、推進するために発信を続けていく。