他人から見てもらうことは、とりあえずいいことだ
研究授業をする上で、いろいろと考えることはあるだろうが、
「他人から授業を見てもらうことは、とりあえずいいことである。」
と自分は考えて取り組んできた。
教師は一般的に、他人から授業を見られるのを遠慮する。はっきり嫌いだという人もいるし、校内の研究授業の依頼を断る人もいる。
学校の中で、年に何人かが授業する計画になっていても、なるべくそれに当たらないようと思っている人は多い。
自主的に研究会まで参加しているのに、いざ自分が授業者になることには避けようと思っている人も同じく多い。
そういう状況の中だから、「よかったら私にやらせてください。」と名乗りを上げるとすんなり決まることが多い。
私個人は教師生活の中で200回から300回はやったと記憶している。200回までは記録を取っているので、間違いない。新任から、年に最低1回はやってきたはずだ。
校内の研究授業でも「誰もいなかったらやります。」って毎年いうのだが、自分よりも若い方も多かったので、他の立候補も多かった。「去年やっているからね。」という理由でできないときもあった。
代わりに自分で勝手にやっていたこともある。勝手に指導案を書いて、同僚や管理職にお願いをして見に来てもらい、その後に指導を受けたり感想を聞いたりしていた。
人に見られるということは、それだけ自分の仕事の透明度が高くなると考えてきた。
これは「研究授業」に限ったことではない。企業や行政の中でも、金の管理、物の管理、など一部の人だけで行う密室的な方法よりも、公開されている方がいいというのは、時代の流れである。(もちろんすべてが、とは言わない。)
「研究授業」をすると、教室の透明度が高くなる。
それは、教師である自分の言動を戒めるために、とても重要な役割を果たすと思っていた。
子どもたちに対して、無神経で分かりにくい話し方をしていないか、自己満足で子どもは少しも分かっていない授業をやっていないか、自分だけが正しいと独善的な思考に陥っていないか、他人に見てもらおうとすることで、そうした部分を排除しようという思考が自然に働いていく。
だから研究授業ももちろんなのだが、いろんな人にいつもオープンである方がいいと思っている。地域の方が年に何度かお見えになるときも、必ず教室の中まで入っていただくように声をかけている。(これは地域の方にも喜ばれる。)
いつでも見られていいという状態を作っておくということは、それだけ日々の取り組みにも気を配ることにつながる。