もしまだ続けている学級があれば、お伝えしておきたい。
保護者に音読を聞いてもらう宿題は、歓迎されていない。読んでいるものを聞いて、確認のサインなどをしなければならないなど論外である。
一人っ子の家庭で、一年生の一学期にあるような短いものを一度聞くだけなら、まだ我慢もできるかもしれない。これが兄弟で数年間にもわたるようであれば、かなりの負担になる。
私も一人の親として、我が子の音読を聞いてきた。我が子は3人いる。
一番上の娘が、2年生の時に「スーホの白い馬」(光村図書)という教材の音読があったことを記憶している。なぜ、これを覚えているかと言えば、一言「長い」のである。
子どもが読むと5分から10分は要するだろう。これが一日ならいい。毎日、毎日同じ話を聞かされることになるのである。
やがて、娘は進級する。時には学童保育で音読を済ませてきているようで、毎日聞かなくてもいい時もあった。4年生になり、今度は「ごんぎつね」である。
そして、二番目の息子が2年生になり、「スーホの白い馬」が登場する。
「ごんぎつね」と「スーホの白い馬」のダブルでやってくる。
こうした状態が間断なく続くのである。
ちなみにやがて三番目も入学し、やがて音読の宿題がやってくるので、似たような歴史がずっと繰り返されることになる。
共働きの保護者が家に帰ってから、子どもの音読を聞かされるのは、はっきり言ってつらい。
教師ですら思うのだから、そうでない保護者の気持ちはどうか、想像に難くない。その上、サインをし、場合によってはコメントまでよこせと言われたら怒りすら覚える。
これが、上手に読めるようになった子どもが自分から「聞いて、聞いて」と言いにいくような場面であれば保護者も歓迎するだろうが。
担任時代に私は、音読の宿題を出していなかった。
その理由をある年の6年生の懇談会で話をしているときである。「2年生にスーホの白い馬という物語があるんですが」と言い始めたところで、保護者から笑いが出た。
お分かりだろうか。6年生の懇談会の話題の中で4年も前の国語の教材の題名を出したとたんに、笑いが出たのだ。
みんな、覚えているのである。それもいい思い出としてではなく。
読んでいる子どもたちも大変だが、毎日聞かされる保護者もつらい。その上、それを毎日チェックする教師の手間もかなりのものがある。実は、誰にとってもうれしくない課題である。
<以下、追記>
「このくらいは保護者のつとめだろう。」と思う教師は、世間が狭いと思われても仕方がない。
昭和の頃の家族モデル(核家族、親子四人、妻は専業主婦のようなの家族モデル)が漠然と、頭の中に残っていて、教科書の音読くらい聞いてくれるだろうと思っている。
少し調べれば分かるが、今やそんな家族の方が少ない。
もういい加減に、夕方や夜に、教科書を読む子どもたちのそばに寄り添い、にこにこしながら音読を聞いてあげている親の姿をイメージするのはやめよう。
モンスターペアレントが増えたと言われる昨今であるが、この音読の宿題に対して教師への批判をあからさまにぶつけないだけでも、まだ大半の保護者は学校に協力的な存在なのだと思っていい。
そして、できる限りその厚意には甘えないことだ。
いや、もしかしたら宿題にする教師も、本当は分かっているのかもしれない。
親が共働きで、帰りも遅い家庭がたくさんあり、そこで音読を聞いてもらうことは大変なのだと。
それでも、やめられないのは、他に指導法が思いつかないからではないか。
かつて大戦の時代に、武器も人員も底をつきかけた中で、司令部が前線に向かって「鋭意、努力せよ。」と打診したという本当のような、うそのような話を聞いたことがある。
保護者が忙しいのは百も承知なのだが、それでもがんばってほしい。よって「各家庭は鋭意、努力せよ。」というメッセージを送っていないか。
よくよく見聞きすると、教室で子どもたちが声を発していることが圧倒的に少ない学級は、かなり存在している。音読はおろか、発表すらしてない。
国語の教科書も読めないが、算数の文章題もすらすら読めない、そんな教室がかなりある。
子どもの発声と音読を、宿題に丸投げして、授業の中で扱っていないために成長していないという典型的な例である。こうした学級では朝のあいさつ「おはようございます。」の声すらか細く、適当にやっている場合が多い。
教師が、教室での子どもの声に敏感でなければ、何十時間の音読の宿題を出そうが、子どもたちは決して上手にはならない。
むしろ日々の学習や生活のあらゆるところで教師が手を入れていけば、子どもたちはすぐにでも成長する。(詳細は、下段の他のコンテンツを参照)
もしかしたら、「国語の授業では、すらすら読めることが前提で進めるのに、これでは授業も満足にできない!」と怒っているのかもしれない。
残念ながら、全ての子どもが四月の当初から教科書をスラスラ読める状態で進級してくることなどありえない。
それは、全ての教師が新任の時に指導要領をすべて頭に叩き込んでいることと同じくらいのレベルを求めている。
冗談を言っているのではない。
集団の中での能力のばらつきが生じることは自然なことである。それは音読だけではない。それどころか、学校や子どもだけでなく社会もまた同じだということだ。
これは長くなるので割愛させてもらうが、四月の子どもたちに何を期待しているのかはっきりしない教師が多い。
実は、音読を宿題に依存されてきたせいで、いつまでも上達しないままに進級している子どもたちがかなりの割合で存在している。前の学年で宿題以外の方法では指導していないために、音読が少しも上手になっていないのである。
その子どもたちが進級し、さらに難しくなった新学年の教材を、宿題で読ませられるのである。
まさに負のループではないか。
誰にとってもうれしくない上に、手間のわりに効果が上がっていない課題でもある。読ませて上手にさせるのは教師の仕事であり、それは教室でなされるべきものである。
保護者の確認をもらおうとする教師の意図は、おそらく「本当に子どもがきちんと読んだのかどうか」を確認したいためだろうと思っている。
(まかり間違っても「保護者への啓蒙」などと上から目線で言ってはいけない。)
本読みのような課題は、明確な証拠が残らないから、教師もどうしても疑ってしまうのである。
だからこそ、あえて言う。そうしたあやふやで成果も不安定な課題を出すことはやめよう。
そして、そのあやふやで不安定な課題に「学力向上」を期待することもやめよう。
保護者が本気で教師や学校を批判してくる前に、音読の指導を宿題から解放し、教師の手元に引き寄せておこう。
教室での音読指導については以下に掲載している。
教室こそが学力を上げるべき場所であり、教師だけができる指導なのである。
音読指導ラインナップ
00 教室で行う音読指導
01 声を出させる音読指導
02 全体から個別への音読指導
03 個から自立への音読指導
04 集団に埋もれさせない音読指導
05 1文から始める音読指導
06 あらゆる教科でできる音読指導
07 微細にこだわる音読指導
08 黙読へ向かう音読指導
09 詰めにこだわる音読指導
10 進化した音読
11 暗唱と連動した音読指導
12 他教科へ波及する音読
13 裏技の音読指導
おまけ 音読の宿題は保護者に恨まれる
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