自由とは選択肢があること
幼い子どもが食事をしている。箸もスプーンやフォークも使わずに、手づかみで食べている。どうやらまだ上手に使えないために手づかみなったようだ。
さて、この子どもは「自由に食事をしている」と言えるだろうか。
音楽の時間にリコーダーの練習をしている。ある子どもは、指も押さえずまるでホイッスルのようにピー、ピー、鳴らしているだけである。
この子どもは「自由に演奏している」と言えるだろうか。
これらの問題は、教育の問題として考えてみる。
すなわち、本人が望んでいることとやっていることが合致しているのか。
その子どもが、箸の使い方も、スプーンやフォークの使い方も知っており、食事の時にはどのようにするのがいいかという文化やマナーも理解したうえで、あえて手づかみをするというのであれば、自由と言えるだろう。
もし、道具が使えずに、手づかみしか知らないのであれば、それは自由とは言えない。
ちなみに道具を使わずに指先だけを使って食べるという習慣も、外国にはある。それにはそれの作法がきちんとあるのだが。
リコーダーも然りである。
この楽器には、楽譜に合わせて音を出すための指使いが決まっている。それに従えば、どんな曲でも演奏できる。演奏できる上で、あえて鳴らしているだけなら、それは自由と言えるだろう。
反対に、指の動かし方を知らずにいるのなら、それは自由とは言えない。
すなわち、自由であるというのは、何かをなすときに自分の中に選択肢があり、それを適切選ぶことができること、と考えることができる。
そう考えると、子どもは基本的に不自由な状態で生まれてくる、と言える。独りでは何もできない。
その子どもが自分で、よりよい方法を選択できるようになることが、自由になることと言えるのではないか。
自由とは選択肢があることである。
そう考えると、教育とは子どもを自由にするための一つの方法だと言える。