等しからざるを憂う
中国の思想家、孟子(だったと思う)の伝えた中に
「乏しきを憂わず、等しからざるを憂う」
という言葉がある。
政治を進めていく上での、民の姿を示した言葉である。
古くからの教えではあるが、現代社会にも十分に通用する。
そして、この言葉は学校教育の中でも十分に通用するものであると、ずっと指針の一つにしてきた。
子どもたちは、足りないことやできないことを悲しいと思っているのではない。
みんなが持っているものが自分になかったり、みんなができていることが自分にできなかったりすることを悲しいと思っているのである。
鉄棒運動で、大車輪ができなくても悲しいとは思わないが、みんなができている逆上がりができないことは悲しいと思うのである。
水泳の25mを泳ぐことは、低学年のうちは誰もできないから子どもたちも何とも思わない。これが、高学年になって次々と泳げる友だちが増えてくると、引け目を感じるようになってくる。
体育の授業だけでなく、他教科の学習はもちろんのこと、何かの順番や割り振りを決めるときなど、あらゆるところでこの原則は姿を見せる。
子どもたちがどのような気持ちでいるかを想像するときに、この原則は一定の目安になるだろう。直接聞かなくても、きっとこのような気持ちでいるだろうと推定するきっかけにはなる。
そこから、授業を考える上でも、大切な指針になる。
また、学級のルールや仕組みを作る上でも生かせる原則である。
みんなができることは、自分もできるようになりたい、と思うことは子どもも大人も変わらない感情であろう。
能力だけでなく、物事に対する機会が与えられているということも同じである。