研究授業は独りでやればいい
研究授業をするときに、学年やさらには近接学年で授業内容を検討する。
授業者一人でやっては申し訳ないから、みんなで考えようというわけである。理念は分かるが、実際のところ、かなり生産性が低いと思っている。
実際の授業は、授業者が独りで行うのである。
授業とは論理的に組み立てる部分があると同時に、教師の個性や場のつかみ方によって成果が左右される、いわば「芸事」の側面がある。
だから、授業者本人が納得のいく言葉や組み立てを選ばなければ、うまくいくわけがない。
漫才のネタを考えるときに、いろんな芸人がよってたかって集まって相談し、寄せ集めのようなネタを作ったところで、実際にそれをやる芸人にとっては少しもうれしくはあるまい、という理屈である。
これをもし、みんなで考えて、それぞれの意見で自分の学級で授業をするというのであれば、まだわかる。しかし、一つの教室で独りの教師がする授業を考えるのは、非生産的だ。
ジャーナリストだった故立花隆が、「一人で走るより、二人三脚の方が遅くなる。走るのですらそうなのだから、ましてや知的作業ではなおのこと。」と言っていた。まさにその通りである。
複数で授業の案を考えるとどうなるか。
みんなそれぞれに思うことがある。それぞれに考えを述べる。
しかし、意見を述べた方も、自分の意見は正しいと思っていても、出された意見の全てが正しいとは思っていない。互いに角が立つので、反論しないだけである。
それでも授業者だけは、みんなの意見を取り入れようとする。結果として、誰も納得してない授業ができあがる。もはや笑い話にもならない。
隣の学級を借りて、同じ授業をやってみるという方法もある。
まあ、同じ授業にはならないだろう。授業というのは変数の多い方程式のようなもので、正解を出すために、どの変数を変えたらいいのかよくわからなくなる。
人間を相手にするというのは、ましては集団を相手にするということはそういうことなのだ。
授業者が本番までに慣れる、という以外にメリットはない。
そして、教師の授業は大半が「ぶっつけ本番」なのだから、年に1回の授業だけリハーサルをやっても、効果はない。
どれほどの準備をしていようと、完全に予想通りの流れにはならない。子どもたちが自主的に活動する授業になればなるほど、予想とは違う結果が出る可能性は高くなる。
それでいいのだ。それは失敗とは言わない。
だからこそ、自分の思うようにやればいいのに、と常々思っているのだが、「みんなで一緒に」という研究授業に出会うことがほとんどである。
自分だけがわがまま勝手なことを言っているのかと、少々不思議な感覚になるのだが、でも考えは変わらない。
予定調和的に、教師の思惑通りに授業を完結させようと思うと、子どもの動きを制御し、まるで劇の中で台本をしゃべっているかのような授業になる。
子どもがそれをおもしろいと思うわけがない。
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