狭められる視野
勤務する時間が長いと、必然的に移動範囲も少なくなる。
朝早くから夜遅くまで仕事をすることになると、家から学校の職員室、職員室から担任する教室、この間を往復だけの生活になる。
教室という空間では、必然的に子どもたちの言動に意識の大半が向けられる。ワーキングメモリも子どもたちのために使いつくしている状態である。
多くの教師は、休み時間を職員室にすら戻らない。つまり、朝からずっと子どもとの生活に自分の意識を向けることになる。
(どの仕事も勤務中はそこに集中するという意味では同じなのだが)
午後、そのまま職員室に降りてきて、ほぼ休む間もなくテストなどの処理。意識もワーキングメモリも集中を継続中。
合間に会議も入る。勤務時間が終了しても、ほぼ仕事は継続し、引き続き意識もワーキングメモリも集中を継続する。
その状態のまま退勤。遅い時間に家に戻れば、脳はすでに疲れ切っているから、それ以上のインプットもアウトプットも難しい状態にある。
かくして、教師の頭の中には、新しい情報が入りにくい状況が生まれている。
低学年の担任をしているときには、本当に毎日の生活が「教室で完結」していたような感覚に陥る。世間はおろか、学校全体でも今何をやっているのかが見えなくなる。
それだけ目の前の子どもへの感度は高くなっているのだが。
特別支援教育としての配慮、いじめや暴力の問題、保護者からの要望、給食などでのアレルギーの対応、などなど前にも増して、子どもたちへの集中とワーキングメモリの酷使が求められている。(それがプロの仕事だろうとも言われている。)
こうした状況は、数値化されないし、アンケートでも見えてこない。(やっている教師はそれが日常と思っているから自覚がない。)
教師は外界の情報を遮断し、「職員室経由、自宅と教室の往復運動」を繰り返すことで脳の負担を軽減しなければならない状況にある。
本当ならば、社会で最も先端の知識を身につけ、子どもたちに提供するべき立ち位置にながら、もう一方でそれを許さない状況が作られている。