板書の罪

教育技術シリーズ

 研究授業の指導案を事前に出すときに、「板書計画」なるものを付けるように求められる。
 これは全国どこでもそうなのだろうか。
 できれば、ローカルルールであってほしい。
 無駄だからだ。もっと言えば弊害だらけだと思うからだ。

 これが子どもの「ノートを書かせる計画」ならまだ理解できる。子どもたちの学習の取り組みが見えてくるからだ。(ただし、これも弊害はある。)

 板書の最終形があるのに、子どものノートの最終形がないのは、その授業がどこに力点を置いているか一目瞭然である。

 子どもが理解していようがいまいが、全員参加していようがいまいが、板書が完成すれば授業は目的を達せられたという解釈である。

 ひと頃「構造的な板書」という言葉がはやった。最後まで意味は分からないままだったが。

 授業を進めながら、子どもの意見を拾いつつ板書していく。それがうまい具合にレイアウトされて、見事な芸術品ができあがる。見ている分にはうっとりするが、芸術品は芸術品である。授業のコスパを考えたときに妥当かどうかは別問題だ。

 結論を言う。

 板書の量は少ない方がいい。
 教師が書けば書くほど、子どもたちはそれを写すようになる。何も考えず、ただ写すだけである。そうしないと追いつかないからだ。

 子どもが思考しなくなる授業とは、それだけで時代に逆行している。これは、教師同士で模擬授業をやってみるとすぐにでも実感できる。

 視覚入力が苦手な子どもたちは、これだけで授業から離れていく。
 黒板という遠いものと、自分のノートという近いものを交互に見ながら写していく作業は、実は難しい。書きながら自分がどこまで写したかわからなくなる子どももいる。

 写すことすらままならない子どもたちが、授業を楽しい、おもしろいと思うわけがない。実際に何も理解もできていない。

 芸術品の板書を作ることは、授業を準備するうえでも生産性が低い。
 授業者は子どもの理解ではなく、板書の完成をゴールにするからだ。
 こんな研究授業が生きながらえていることが教師の働き方改革を阻害していると言っても、決して言い過ぎではない。

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