仕事の内容が、本業に集中できるようにすることが働き方改革の一つの指針になる。
教師の本業は授業である。授業をして子どもを教育することが本業であって、それ以外はいわばオプションである。
実際はいろいろあることは承知している。
しかし、一度振り切って思考トレーニングをしてみると、動くべき方向性が見えてくる。
会議も授業に従属するオプションと考えていい。校内で行われるあらゆる会議は、授業を円滑に進めるための意志の共有の場である。
ここを意見主張の場としてとらえると本業の授業を圧迫する。教育の理念や具体的な取り組みについて、意見を主張してようと思っても時間がかかるばかりである。そもそも会議の目的が違っているから時間がかかる。
会議のありようについては後に詳細に述べる。(参照「会議は合意形成の場」)
研修ももちろん授業に従属するオプションである。
授業をうまくするために、研修がある。
昨今は、服務倫理についての研修など授業に直結しないものも研修と称して行われているが、こうした内容は本来限りなく削られていくべきである。服務倫理に関する研修が増えてほしいと思っている人は、教育委員会を含めて一人もいないはずである。
そう考えると削られてくるものは結構見つかる。
宿題の確認も、授業とは直結しない。
授業の効果が100%に近づけられるほど、宿題の意味はなくなっていく。
授業だけで学力を身につけさせられるのであれば、教師にとっても子どもにも保護者にとっても、実はありがたいことである。
あの膨大な宿題チェックの時間が、教師の勤務時間をかなり圧迫している。そして、それがある意味当然のことだと思っている教師は相当数いる。
宿題チェックのせいで、超過勤務になったり、教材研究ができなくなるのは本末転倒である。
文書の提出も同じである。しなくていいなら限りなくゼロに近づけるべきである。公的な存在としての学校が、文書を丸々なくすことは無理だろう。報告や集計も時には必要である。
しかし、そこは内容の精選、そしてデジタルによる簡素化など今なら取り組めることがたくさんあるはずだ。
残念ながら中途半端なデジタル化のせいで、むしろ多忙感が増している気がする。
教材研究の時間も、なくて授業ができるようになるならそれに越したことはない、と割り切る。
教材研究に関しては授業と一体化している部分もあり、これを別のものと考えることに抵抗がある教師も多いだろう。
別に詳しく述べていく。