非論理的な議論2 変化への抵抗

働き方改革

 昼休み短縮反対の意見の中に「宿題が見られない」というのがあった。

 この意見などはまさに、墓穴を掘る意見である。
 宿題をさせて、それを見てくださいと管理職がお願いしたわけではない。むしろ宿題は減らしてはどうか、という意見があったくらいだ。
 強制されたわけでないのなら、宿題を出したのは、教師の自主的判断となる。自分で出した宿題を見ることができないので、昼休みを短縮するのは反対です、と言っているのは、理屈にあわない。

 反対に、どこまで昼休みがあればいいですか、という話になれば、今のままくらいでちょうどいいという話になるだろう。宿題を見るための時間が欲しいから、昼休みを延長してほしいという意見は出てこないはずだ。

 お分かりだろうか、今のペースで仕事をしているから、それを乱さないでくださいとしか言っていないのである。いろいろ言っているけれど、本心はそれだけである。

 宿題を昼休みに見るようになると、教師の休憩時間が事実上取られているわけなので、本来ならば、もっと根本的に宿題の在り方を考えるべきなのである。なくすことも踏まえて。
 これが45分は認められた休憩時間なので、ぶつ切りは反対だというなら、まだ筋が通っているのだ。(結果としては、教師の休憩時間を分割して取ることになっている。)

 仕事をするから休み時間を短くするのは反対と言っている限り、教師の働き方改革などできるわけがない。本来の休み時間の使い方を逸脱しているのに、それが堂々と議論の俎上に上がるような状態で、まともな議論ができるとは思わない。

 学校現場は忙しいとみんな言う。それはきっと全員賛成である。だからと言って、何かを変えようとするときに、変えられない空気が現場にはある。
 忙しいという言葉が何やら天気のあいさつをしているような感覚で、実は自分の生活のテリトリーが侵されていなければ、大きな変革は望まないという人は意外に多い。

 こういう場合、むりやり変更しても3年くらいすれば、意外に慣れてしまってこちらがいいと言っていることもしばしば見受けられる。

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