地元近隣の学校では、昼休みは45分のところがほとんどである。
それを、以前赴任していた学校で45分を30分に短縮しようという提案を行った。
時制変更の一番の理由は、短縮により子どもたちの下校時間を早めることであった。
次の理由がけがの防止である。昼休みに起こるけがの多くは、昼休みの終盤に起こっていた。
子どもたちも遊び疲れるのかもしれない。実際に先行して短縮した同じ市内の小学校では、昼休みのけがが数分の一に減少したという話もあった。
こういう話を提案したときに、当然のことながら反対意見も出る。それが民主主義だし、多様な意見を吸収していくことも大切なプロセスだからだ。
しかし、中には視点が凝り固まっていて多少論点が不明になっている人も出てくる。
例えば、昼休みに遊ぶことで子どもたちは人間関係を作っている、だからその時間を短縮することは子どもたちにいい影響を与えない、というような意見である。
二重にも三重にも論破できるのだが、大切な視点が欠落している。
実際にそれを行っている学校があるということだ。関東などはむしろそれが当たり前であるところが多いらしい。
だとすれば、すでに実践している学校は、子どもたちの人間関係の構築に失敗しているのか、という意見が出ても仕方がない。寡聞にしてそんな話は聞かないし、そうした研究もない、45分に延長しようという話も聞かない。
つまり、人間関係の構築に失敗するというのは、意見を言う人の「想像」なのである。
そうでなければ、すでに先行しているところへの侮辱になりかねない意見である。きっと聞いたら怒られるだろうなあと思う。
議論がなされるときに、両方の意見を天秤にかけて是非を問うという形ではなく、一方を完全に固定して、そこから想定される「イメージ」を次々にぶつけてくるという論法を取る人が多い。
まあ、教師だけでなく政治の世界でも散見するが。
こうなると議論は泥仕合である。
結果的に昼休みは短縮され、今も継続している。あの時に反対した人たちが再び意見を言うのを聞いていない。慣れたのかもしれない。その程度の議論なのか。